蓮行、“演劇×社会”を語る 「演劇は、あった方がいい」フリートーク #2

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「頭を下げれば大丈夫」 内に新設の「演劇×社会」を語るコーナー

『演劇は、あった方がいい』

その第1回はお読みいただけたでしょうか。わしがインタビューされております。

◯特集ページ 「演劇は、あった方がいい」

◯インタビュー企画 蓮行 第1回 「極端な話」

この第1回インタビューに先立って実施した、第0回としてのフリートークを、関連テキストとして「蓮行流クロスメディアミクス道場!」にて掲載しております。

あまりに長かったので、分割掲載することにしたわけですが、今回の更新ではその後半部分をアップいたします。(前回の告知どおりである!)

フリートーク後半では、

・演劇と、基本的人権が尊重される社会

・社会に“溶け込む”ということ

について語っております。

↓↓↓

■基本的人権が尊重される社会

蓮行 で。では「演劇が浸透した社会とは一体どのような社会になっているか」というのは、全くその通りで。「このようにして皆さんがニコニコと、こうしてこうしてこうして、こういう社会だ」というふうな形では言えないんだけれども、でも、そっちは、実は言える。

ー 言える?

蓮行 えっとね、どういう社会か、というと「基本的人権が尊重される社会」です。

ー 基本的人権が尊重される社会…。

蓮行 そう。基本的人権を互いが尊重し合う社会。

ー 「それが実現されるためには演劇は必須」という考えのもとで演劇を「あった方が良い」と考える、ということ?

蓮行 残念ながら、それはちょっと違います。それは本当に厳密なんです。少なくとも僕は「お互いが基本的人権を尊重し合う社会」というのは非常に理想的だと思っているし、それを実現しなきゃいけないと思っている。けれど、それを実現する手段として演劇が必須だとは思っていない。

ものすごく苦労をして「とにかく演劇という手段だけは絶対に使わない」ということを選択しても、その社会を実現することは不可能ではない。

けれども演劇を使う方法が、簡単にいうと低コストで早いということです。それに、演劇が皆さんにうまく蔓延していくとお互いが基本的人権を尊重し合う社会に近づいちゃう。結果として。だから、その社会をつくるための手段として演劇を使うのではなくて、演劇がそのようにされていると、結果としてそうなっちゃう。

でも、それが自明である…僕はこれを自明だと思っているんだけど…それが自明であるという以上は、じゃあ、そういう社会を目指すために演劇というものを手段として考えても良いんじゃないか、とは思うんです。それは非常に、さじ加減が微妙なところ。だけど、「それを政策にしましょう」とかいう場合にはもうちょっと雑に、雑というかビシッとして、「基本的人権を尊重する社会になるためには演劇が必要であるから、演劇を税金でやりましょう!」とかっていう説明に、最終的なロジックを組み立てる必要があるかもしれない。

■溶け込む

ー 演劇の意義みたいな話に、だんだんと踏み入りつつあるような気がしますね。

…その、「演劇がぼんやりとした形で存在する社会」にするために、演劇ワークショップのような活動はある、とお考えですか?いまの話を聞くと、たしかに、何か形を規定した在り方で存在させない方が良いと思ったんですけど、「ぼんやりと演劇が浸透した社会」というのがどういう形で実現していくのか、ということが、私からはあまり想像がつかなくて。

演劇人はそのぼんやりと存在する社会というのに向けてどういう活動をしているのか…。それを、「具体的に達成しよう」という意思で活動しているわけではないにせよ、いまの活動がどの様な形で繋がっていくと思っていますか。

蓮行 何のために何々、って言うロジックはまさに僕が今日言った因果律の思考パターンに癖として陥っているんです。で、陥っているという言い方をしたけど、実際このロジックは便利なわけだ。話が早くなるので。別に全否定はしないけれども…

ー あ、うーん。私は、「これのために何をしているか」と聞きたかったのではなく。「いまの活動が結果としてどう繋がっていくと思うか」と聞きたかったのですが。

蓮行 うんうん。でも、それはちょっと言い方がマイルドになっただけで本質はそんなに変わっていない。

ー はい。

蓮行 ええと、どう言ったらいいかな。難しい話なんだけれども。うーんとね、つまり僕の語彙でいうと、動的かどうか、っていう話なんです。

…例えば音楽ってすごく普及していると思うんだよね。

ー 街を歩けばどこかしら1回は音楽を聴きますもんね。

蓮行 なんだけれども、「江戸時代に比べて今の現代社会は、音楽が普及していると言えるか?」というと、これは普及しているとも言えるし、してないとも言えるわけだ。

ー はい。

蓮行 だし、江戸時代と現代を比較した時に、そのなかには、普及した時期もあれば普及してない時期、廃れた時期もある。例えばおそらく太平洋戦争中は音楽どころじゃなくて、あっても軍歌しか流れていなかったとか、そういうことがあるわけ。音楽のように、個々が自由に発信するような社会というのを、当時の権力がよしとしなかったので、弾圧されたわけだ。ここまでは良いかな?

ー はい。

蓮行 それでいくと、現代社会で僕が「音楽が普及している」と言っている理由は、まず、だれもが、プロの演奏した音楽を入手することができるし、自分が鑑賞することができる。だし、私達がその辺で歌を口ずさむこともできるし、カラオケで歌うこともできるし、なんなら自分でパソコンとかスマホを使って音楽を作ることもできる。作ったものを YouTubeか何かにアップロードすることも出来る…というように、音楽に関するあらゆる主体性を我々は選択できる状態にいるわけだ。これは、音楽がたいへん普及しているというふうに言える。

普及して、みんなが知れば知るほど「もっとこうしたい」ということが出てくるから、音楽に関しては、さらに加速度的に普及するということがいえる。ところが演劇の場合は、みんなが知らないので、何が楽しいのかもわからないし、そのために「もっと何があったら楽しくできるのかもわからない」ということがどんどん起こっているわけだよね。

じゃあその、音楽というものに引きつけて考えた場合、音楽が普及した理由は何だと言うことを考えると、まぁいろんな要素はあるにしても、まずは学校に音楽の授業があるということ。で、音楽の授業があるということは、音楽の授業には定型がある。形式が。

「小学1年生はハーモニカをやる」「3年生は縦笛をやる」というような。さらに「縦笛はこのように指導しなさい」という形式がある。教育学習の形式があるっていうことは…よく言われるよね、「あの音楽の先生のせいで音楽が嫌いになった」ということはたくさんあるけれども、一方で、日本の北海道から沖縄まで津々浦々、一定の水準の音楽体験ができるということが担保されている。

でも、学校の音楽では飽き足らない人達が、自分で「じゃあどうするか」っていうときに様々な手段を選ぶことができる。

だし、もちろん、日本の場合はレコードというものが、後にはCDが商材として流通していて、それを利用してみんなは家で音楽を聴けるようになった、ということが大きいのだけれども、もう一つ、絶大な影響があったのがカラオケなんだよね。カラオケによって、みんなが簡単にプレーヤー側に回ることができる。楽器を買ってきて弾いてみるというのは非常に大変だけど、用意されている音楽をバックに歌える。これはすごく重大であるわけだ。

なので… あれ?元々何を聞かれたんだっけ。

ー えーと、「演劇があった方が良い、そのあった方が良い社会というのはどういう形の社会なのか、演劇があることによって社会はどのような姿になるのか」というのを最初に聞いていて、演劇のあるべき形というのは規定しない方がいいと蓮行さんがおっしゃって。で、私の新たな疑問として、じゃあその「ぼんやりとした形で演劇がある社会」に向けて、いまの演劇のどういった活動がそれにつながるのか、という話でした。

蓮行 ええと。普及する、しない、っていうことにおいて、その手段は必ずスクラップアンドビルドされるんですよ。

ー というと?

蓮行 かぶき者だった前田慶次郎はすごく三味線が上手だった。僕らの少年時代にちょっといちびった少年がエレキギターをかき鳴らすように、当時の楽器の構成でいえば、その時代のかぶき者たちは三味線をかき鳴らしていたんです。

でも今の若者達は三味線を弾かない。当時は「三味線がべんべん」だったのを、今は三味線が廃れて別のものが流行り…ということがある。「少なくとも音楽は普及してますよね。」っていうことの、手段において、学校の授業をあげる人は実はたぶんあまりいない。当たり前すぎて。「よく考えてみればそうだよね」とはおもうと思うんだけど、「この世の中に音楽は普及してますよね」「音楽を楽しんでますよね」って言ったときに、まず「音楽の授業がありますからねえ。」っていう人は少ない。

国語とか数学とかと同じように、あまりにも当たり前のものになっちゃってるわけ。

今はそうなっちゃってるけれども、多分、戦後に「学校制度をもう一度軌道に乗せよう」っていうときに「音楽の授業をするべきか、しないべきか」というのはすごく議論されたと思う。だってそこで軍歌でもやれば、また軍国主義とかになっちゃう可能性もあるわけだから。それでも、音楽の授業は、国民の豊かさを担保する上でどうにも有効だとされた。けれども、しかしそれが「学校で、みんなで合唱したのがとても思い出です」という、お婆ちゃんはいるかもしれないけど、今の若者達の大半の子たちは多分音楽の授業で合唱したことよりも、学校祭で勝手にバンドを組んで歌ったこととか、音楽サークルに入っていました、という方が多分印象が強かったりするわけだ。

ー 私は、軽音部も入っていましたけど、学校祭で合唱したことの方が印象に残ってますね。

蓮行 ははは。そっか。そりゃ失礼。そういう子もそりゃ居るかもしれない。えっとね、何が言いたいかというと。フルスケールの演劇を導入していくのはとても大変だし授業にするととても大変なので、これまでの教育において、色んな人がそれに敗れ去っていった。

だからひとつ、われわれは現実として演劇ワークショップというものを導入していけばいい、ということなんだけど、演劇ワークショップというのが導入されても、最終的な理想形では、それが解体されたり意味がなくなったりすることが理想なんだよ。

ー あって「しまっている」状態ということですか?

蓮行 だったり、そのときにはみんなが「ワークショップ」なんていう形式を取らなくても、国語も社会も体育も全部、演劇の要素によって学びが深まっていったり、国語と算数という科目のボーダーも取り払われて豊かな学びになっていているのだから、わざわざ演劇なんてものを意識していなくてもよくなるというのが一つのあるべき未来でもあるわけで。

それでいくと、それを間違えるとまあいけないわけなんだが、今のところ僕は現実的に取れる手段としては、自治体とかいうレベルにおいて、子どもの授業や、教師教育というところに、演劇という科目をもっとコンパクトにした「ワークショップ」という手法を体験させることによって、それで何か「有意なものが明らかにありましたよ」っていうことを示して、「じゃあ続けようか」「じゃあうちでもそういうシステムをやろう」という形で広げるしか、いまのところ我々にとりうる手段がないというのが僕の認識。

ー 存在していることを感じさせない存在の仕方、に最終的にはなるように。音楽の授業とかと同じように。それが普及っていうことですね。

蓮行 しかも、それを最終的に目指すわけじゃない。それは勝手にそうなっていくわけだ。我々の寿命とか現役である仕事の時間的スコープでいえば、それに15年とか20年かかるとするなら、その頃には我々の現役は終わっている。で、そこから30年かけて演劇がありうべき…空気の様に水の様に当たり前のものになっていくとすれば、その時代には私は生きていない可能性が高い。なのでまあ、それは知らねえと。だし、逆に、「演劇ワークショップ」というものが強固に固定化されるような時代になってしまうかもしれない。それも知らねえ。知らねえが、ないよりはあった方が良いという信念のもと、また、あるようにするために、最も現実的な手段、具体的な手段は何かっていうことで今動いている。

ー なるほど…。ここで、時間みたいですね。ではとりあえず今日はこんな感じで。

蓮行 はい。ありがとうございました。

ー ありがとうございました。

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