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後悔を否定しない

少しでも後悔のないように過ごしたいと思う。

そして自分に関わる全ての人に後悔が少しでも減らせるようなお手伝いをしたいと思っている。

でも、今までの過ぎてきた人生においての後悔を減らすことはできない。どうしても避けられないことだってある。

例えば、突然の病気の宣告、それによっての手術等々。

89歳の叔父は、後悔を口にする。
それは、叔母に対しての優しさや叔母を想ってのことだと言うことはよくわかる。

「一番の後悔は、自分に子どもがいないことだ」
と、最終的に後悔はそこに辿り着く。

叔母は子どもが大好きで、叔母の姉妹の子どもたちは私を含めとても面倒を見てもらった。
叔母が若い時、当時の不妊治療もしたらしく、叔母は私に話してくれたことがあった。
しかし、子どもを授かることもなく、諦めることとなったらしい。

おそらく、叔父もその時は納得していたはずなのだと思う。

高齢になって、叔母が認知症を発症したと同時に叔父が肺がんを患い、入院手術になったとき、叔母は一旦、ショートスティで介護施設に入所することになる。その後、叔父が退院して体調がよくなって叔母はまた自宅に戻ることになったのだが、その時には認知症が随分進んでいた。

そういった一連のことも叔父は
「子どもがいないこと」ということに原因と後悔を口にする。

人生において、どうしようもないことはある。人生において過ぎてきたことはどんなに後悔しようともやり直せることはない。
でも、後悔を口にしないといられないときはあるのだと思う。

叔父の後悔は、叔母は幸せだったのだろうか?という問答なのだと思った。

「俺が癌になどならなければ…
 子どもさえいれば…」

どの後悔も、自分本位のものではなく、叔母の幸せを考えたときの後悔なのだと思う。

叔母に認知症が現れたときに、叔母は叔父を責めるような言葉を発したらしい。おそらくそれは叔父にとって堪えたのだと思われる。

しかし、もっと認知症が進んだ叔母がいつも叔父に対して言った言葉は
「あんただけが頼りなんやでな。お願いよ。」
だった。

私は、この言葉が叔母の一番の本音だと思っている。

子どもがいても、様々な理由で近くにいない場合というのは今は特別のことではない。だから、子どもがいる、いないは、今の時代はさほど関係がないように思う。

しかし、やはり心の拠り所としては、血がつながった人がいるということはそれだけでも、安心につながるのかもしれない。

人は、その時に思う最善を選び人生を歩いてきたのだと思う。
その時に最善だと思ったことでも、それが後悔に変わってしまうこともある。

後悔を口にすることは、もしかしたらそのことさえも心の拠り所を考えると今の最善なのかもしれないと思えてくる。

今、叔父に私ができることは、その叔父の後悔を側にいて否定せずに耳を傾けむけることだけなのかもしれない。

今までいえなかった後悔を口にすることで、人は何かしら整理をつけていくのかな…。

叔父が口にする後悔は、あくまで自分の人生についての後悔ではなく、叔母は幸せだったのだろうかというところからくるものだ。

後悔のないように過ごしたいと思っている私だが、こんな後悔の仕方もあるんだな、と叔父の話を聴きながら感じていた。

叔母が突然、認知症の症状がなくなって、こんな叔父の後悔を知ったらどう答えるのかな…

その答えは
「あんただけが頼りなんやでな。お願いよ。」の言葉に含まれているのかもしれない。

叔母は一昨日、誤嚥性肺炎で入院した。
1日でも早く退院して、叔父と2人の時間をまた過ごしてほしいと願わずにはいられない。

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