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「秘色の供花」

淡い恋の思い出は、たとえば田舎の実家の広い空き地にプールをひろげて、そこに浮かべたままにしておこう。あるいは、路地裏の誰も僕に関心がなさそうなバーでカクテルを頼み、そこから目を閉じて数十分間の、浅い夢のうちに閉じ込めてしまおう。あるいは、砂浜を歩くうちにできてしまった貝殻のいびつなネックレスと一緒に
誰にも届かないよう、海に流してしまおう。

一一貝殻でいっぱいの六月の砂浜を歩く。喪失感でむやみに満たされようとする僕を、海辺の太陽が睨みつけている。
なんとなくで歩いていると、足元にメッセージボトルがあるのを見つけた。あれ、と気づいた頃には僕の手の中に収まっている。コルクは柔らかくなっていて、開けると濁った瓶は少しの海水と共に中身を吐き出した。手のひらでうける。出てきたのは柔らかな金色の毛束と四角い動物の皮の断片だった。
キメが細かくて薄い皮と細い毛は、どうも若い女性を連想させる。太陽光が表面を撫でて、白く滑らかに光る。きっと何か大切なものだったのだろう、キレイだ。家について瓶を液で満たし、光の届かない薬棚に入れた。

数週間して、僕は高熱に見舞われた。薬棚から解熱剤を取り出そうとして、あの瓶が手の甲に触れた。思い出したように中身を開けてみると、薬剤の匂いと一緒に閉じ込められた何かの予感が込み上げてくる。熱がひいたら、これを海に返しに行こうと決めた。

夜、車を出して海岸沿いに行く。どこまでも続く暗闇と海の音。何かが足先に触れてライトを向ければ、またメッセージボトルがあった。コルクは柔らかく、中身が海水とともに飛び出て、手のひらを転がる。
髪の毛と研ぎ澄まされた爪。透明感のある薄ピンクの爪は工芸品のような美しさで、どこか非現実的な、海の生き物らしさのようなものを感じる。僕は何だかばつが悪くなり、カバンの中の瓶を返すのをやめた。そして、代わりに二個目の瓶を持って帰った。

次の日はぐっすり眠れて、海には行かなかった。
そしてその次の日は眠れなかった。

明け方五時の砂浜は優しくてそっけない。足元にはやっぱりメッセージボトルがあった。
今度はキャップ式のものだった。いつもとは違う小さめの平たいボトル。
家に帰ってから慎重に取り出すと、一枚だけの鱗が出てきた。
食卓の食器の真ん中に置かれたそれは、まるでひとつの宝石のようだ。
僕は勘づいていた。
これが彼女たちの葬り方なのだろう。
僕はもう二度とその砂浜には行かなかった。
彼女たちの天国がいつまでもそうであってほしくて。

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