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画面外への脱出 - ジョナサン・グレイザー『関心領域』

 様々な映画で描かれてきたナチスドイツによるホロコーストを主題とするにあたり、ジョナサン・グレイザーが先行作との差異として選び取った手法は、その残虐な行いを徹底して画面の外に追いやる、というものだった。すぐそこで進行し続ける非人道的な行為が直接画面内に入り込むことはなく、時折銃声や悲鳴が聞こえてくるばかりである。では、そんな映画に映っているものは何か。
 アウシュビッツ強制収容所に隣接する家には、収容所の所長一家が暮らしており、忙しなく動き回る一匹の真黒な犬とともに、緑豊かな環境で平穏な生活を送っている。映画はその暮らしを淡々と捉えていくが、その描写の方法に、ある一貫した規則のようなものが浮かび上がってくる。正確な間取りは分からないが、少なくとも二階建て、そして複数の部屋がそれぞれの階にあり、加えて広い庭も備えた大きな一軒家の内外を人物たちは行ったり来たりする。異様なのは、部屋の内部に置かれたカメラが捉えた人物が、ある部屋から廊下に出ていくと、廊下に置かれたカメラが出てきたその人物を捉え、また別の部屋に入っていくと、今度はその部屋のカメラが入ってきた人物を捉えるのだ。それらは時間的持続を伴うモンタージュによって繋がれ、移動の際にドアの開閉などが介在すると、そこには寸分違わぬカッティング・オン・アクションが発生する。それは室内の部屋間の行き来だけに留まらず、庭や、家の敷地外でも徹底して行われ、人間だけでなく、飼われている黒い犬でさえ、そんな時間的持続の内側に閉じ込められ続けるのだ。この時間的持続というルールを保った映画の編集自体は珍しいものでも何でもないのだが、ひたすらに繰り返されるその徹底ぶりや、垂直・平行・直角性の際立つデクパージュ、備え付けられた10台もの無人のカメラによって同時に撮影されたものを繋ぐという制作方法が、明らかな異様さを生み出している。
 その歪な手法の結果として、人物たちはどんな影響を被っているのか。どれだけ部屋を行き来しようとも各所に置かれたカメラに捕捉され、川の中から這い出て水際を早足で歩こうともカメラは滑らかに横移動を開始し、彼を画面の中心に据え続ける。彼らは画面外へと脱出することを禁じられているのだ。強制収容所でのユダヤ人虐殺という途方もない画面外を抱えている映画全体の構造とは、まるで対照的だ。さらに、複数台のカメラによって狙われ続ける監視社会的空間と、それらがシステマティックに繋げられ、無機質に進行していく様は、収容所の非道なメカニズムのある種の模倣ともいえるのではないか。
 収容所の所長であるルドルフ・ヘスも、画面外への脱出を禁止され続ける登場人物の一人に他ならない。しかし、本作が終わりを告げるまさにその瞬間に、彼はようやく画面の外に広がる暗闇へと消えていき、その姿を次なるポジションで待ち構えるカメラが捉えることはない。その脱出は、これまでモンタージュにおいて厳密に保たれ続けてきた時間的な持続に亀裂が入ることによって起こる。映画の最終盤、ヘスが階段を下りながら吐き気を催すシーンの直後、なんの前触れもなく、ホロコースト犠牲者の遺留品などが保存され、博物館として公開されている現在の収容所の姿が映し出される。そして映画はもう一度、暗がりに佇み、虚空にある何かを見つめるヘスの姿に戻るのだ。彼は何事もなかったかのように、階段を再び下りていき、姿を消す。空間的な画面外の獲得の契機となったのは、「時間的な画面外」の導入とでもいうべきモンタージュだった。
 彼らの犯した取り返しのつかない愚行に対して、その進行当時まさに与えれらるべきだったのは、このような「時間的な画面外」だったのかもしれないが、歴史上のあらゆる人類の過ちを振り返ってみても、そんなことが可能だった試しは今まで一度たりともないのは自明である。

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