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彼らは何に備えているのか - クレール・ドゥニ『美しき仕事』

 そこがジブチというアフリカ大陸の東部に位置する国であるという情報は、一応この映画の冒頭で示唆されはするものの、その後我々の眼前に広がることになる無骨な大地や日光を受けて照り輝く海面は、どこまでも匿名的な様相を保ち続ける。そこで兵士たちが繰り広げる訓練と思しき活動についても、仮想敵や具体的な目標などが示されることはなく、ただ彼らの肉体的な強度が練り上げられていくのを見つめることしかできない。もちろん、すべての軍事的な活動が喫緊の有事に対応するものであるとは言わないが、それにしても彼らからは、来るべき武力衝突の影に不安を抱く様子は感じられない。
 ドゥニ・ラヴァン演じる部隊の上級曹長・ガルーが過去を回想する形で語られる、という映画全体の構成がそのどこか牧歌的な空気に寄与しているとも考えられる。しかし、ラヴァンを取り巻く人間関係の緊張を保ちつつも、最低限の情報を観客に提供するという説話上の重要な役割を果たしてはいるものの、その構造自体は彼らの日々の様子に何ら干渉できるものではない。彼らが何を目的として活動しているのか、何に備えて日々訓練を重ねているのか、ということは、ただその様子を見つめることでしか知りえない。
 ラヴァンの号令にあわせて、兵士たちが腕立て伏せを繰り返す場面がある。「上、真ん中、下」の号令がランダムに叫ばれ、その通りに腕を屈伸させることが求められているようだが、徐々に号令とズレが生じる兵士の様子も散見される。しかし、そんなことは気にする気配もなく、ラヴァンは自ら率先して腕立て伏せを継続する。号令はあくまで形式的な掛け声にすぎず、彼らにとってはその運動を繰り返すことが何よりも大事なのだ。ラヴァンとグレゴワール・コランが睨み合いながら立ち回り、徐々にその距離を詰めていき、一触即発かと思いきや何事もなかったかのようにシーンが切り替わる、といった編集からも、その運動の果てに到達する地点には重きが置かれていないことが分かる。ほかの多くの訓練シーンでも、彼らは運動の目的など一切頭にないかのように、ただ肉体を繰り返し動かし続ける。ルーティンと名付けてもよい日々の訓練の目的は、その先にある何かしらの達成ではなく、その繰り返し自体を絶えず継続させ途切れさせないことにある。ルーティンの目的はルーティンそのもの以外にはあり得ず、そこに敵国やノルマなどは不要なのだ。そして、それ自体が目的と化していることに無自覚なまま反復を続ける肉体の律動こそが、仕事の美しさであるとこの映画は宣言しているように思えてならない。
 何か巨大な予感めいたものを象徴していると嘯きたくなるラヴァンの激しいダンスによって映画が幕を閉じる直前、彼は何をしていたか。自らに銃口を突きつけることを既に確信しながらも、横たわろうとするベッドのシーツを丁寧に整えていくのだ。恐らくこれまで幾度となく繰り返し行ってきたであろうその動作を、深い絶望の中でも止めることは出来ない。その反復にこそ意義があることに、故郷に戻った彼は気づいたのかもしれない。
 1999年に作られたこの『美しき仕事』という途方もない傑作から13年の時を経て、全く同じタイトルが冠せられていても違和感のない新たな傑作の中で、ラヴァンは再びパリの街に姿を現すことになる。彼はリムジンの中で次々とその風貌を変えながら街に繰り出し、一日の間に忙しなく幾つもの「仕事」をこなしていく。そこにどんな目的があるのかは分からずじまいなのだが、彼は「仕事」の有用性や意義に疑いを持つ素振りなど見せない。そんな彼のルーティンに疑問を投げかける人物に対して、ラヴァンは答える。「始めたときと同じように続けていくつもりだ。身振りの美しさのために」。

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