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男が階段を上る時 - ホン・サンス『WALK UP』

 韓国語の原題は「탑」、意味は「塔」である。映画監督である主人公・ビョンスが娘のジョンスを連れ立って訪れることになるのは屋上付きの4階建てアパートであり、それぞれの階層で彼らは食事をしたり、酒を酌み交わしたりしながら、ダラダラと会話を続ける。この建物がすなわち「塔」であり、そのあっけらかんとした慎ましさと、どこか見るものを簡単には寄せ付けない不気味さとに、この映画のタイトルとして冠せられるのに相応しい一文字たる所以がある。映画のタイトルなど、それ以上でもそれ以下でもない、映画の外側に便宜上置かれたビルボードのようなものだと冷静な態度を保ちたいところではあるが、この映画の冒頭と終幕に二度、黒画面に白文字で大きく「탑」と映し出されるのを見てしまうと、そうも言ってはいられないのではないか、という胸騒ぎがする。この映画がアパートでもマンションでもなく、シェアハウスでも民泊でもない、「塔」を舞台にして撮られていることにこそ、一見いつもと変わらぬホン・サンスの新作が何たるかを探る糸口がある。
 映画は特殊な時間の流れを生み出しながら進む。大まかにその構造を述べる。序盤に起きた出来事はいつの間にか中断されていることが判り、それと地続きと思われる出来事がラストで唐突に再開し、少しして映画は幕を閉じる。その間には、会話の内容から推測するに、冒頭とラストのワンセットよりも、後に起きたと思われる出来事が連なって描かれる。なお、いずれも「出来事」と呼んでいるがその呼称に足るような「事件」のようなものは例によって起きず、基本的には主人公ビョンスと、彼を取り巻く人物たちが会話をする、という「いつもの」ホン・サンス映画の様相を呈するのみである。これらの会話たちが、一つの階層に一つずつ、各々の空間と役割が与えられ、それらが垂直に連なることで自立している「塔」の内部で繰り広げられなければいけない理由とは何か。それは決して、ビョンスの男性的能力が年齢の割に凄まじいということが、情事に及んだ不動産屋の女性・ジヨンから語られる際に、こちらの脳裏に浮かぶことを避けられないあるイメージとの連関に基づくものではないだろう。そもそもホン・サンスの映画における中年以上の男性達はつねに、若者に劣らぬ精力を保ち続けており、近作ではその傾向にも少しずつ変化が見られるとはいえ、その弛まぬエネルギーの功罪によって、ホン・サンス映画は駆動してきたといってもよい。ある意味ほとんどすべてのホン・サンス映画において「塔」は重要なモチーフとして既に存在しているわけで、今作でわざわざそれを建築物としてメタファー化したとは到底考えられない。
 先述したとおり今作は、ほかの多くのホン・サンス映画でも行われることの多い、時系列の操作-ともすれば、単に時系列の操作だけではなく、虚実の混濁ともとれるが-によって、単線的ではない構造を持っている。その時間のランダム性とは対照的に、リニアに配置されているのが「塔」の階層である。映画が進むごとに、ビョンスらが会話の拠点とする部屋は1階から4階、そして4階の部屋と繋がっていると思しき屋上へと移っていく。見るものを混乱させる時間軸の交錯は、この階層の規則的な配列による空間の秩序を保つために行われているともいえるのではないか。長回しで捉えられるそれぞれの会話シーンを繋ぐために随所に登場するのが、「塔」の階段である。この階段にビョンスが姿を現すときはきまって、階段を上る。階下にウイスキーを取りに行くと言って、大家のヘオクが階段を下っていく場面があるが、この唯一の例外を除いて、ビョンス以外の登場人物についても、つねに階段を上るというアクションが捉えられ、下る行為は省略されるという原則に貫かれている。ここで思い出したいのは、日米仏ほか、多くの国で採用されている「WALK UP」というタイトルである。これも気まぐれでつけられたものではないだろう。本来抗いようのない時間の流れはいとも簡単に捻じ曲げられているにも関わらず、そこに迷い込んだが最後、上へと登っていくしかない塔の呪いから、彼らは逃れることができない。この「上」への運動に人物を縛り付けることこそが、今回の会話劇が「塔」を舞台として行われる最大の動機となっている。
 そんなビョンスも、ようやくその呪いから解放され、階段を下る様子は見ることができないものの、不動産屋のジヨンとともに塔を下り、建物の外へと出る。いつの間にか時間の秩序も回復しており、娘のジョンスが何事もなかったかのように戻ってくる。ジョンスが建物の中へと入っていき、一人取り残されたビョンスはおもむろに煙草を取り出し、どこか浮かない顔でそれを吸う。ビョンスの視線は、いつの間にか上へと向けられ、何を見るでもないような神妙な表情で画面外の上空を見つめたまま、映画は終わりを告げる。上へ、上へと上るしかない塔から這い出た主人公だったが、その体はすでに、治癒する見込みのない「上昇ウイルス」に犯された後だったのだ。まるで、殲滅したと思われた地球外生命体の生き残りがその気配を匂わせ、人類への反撃の時を窺っていることが明らかになるといった、パニック映画のお約束的エンディングのようにも見える。そんな不吉な終幕に相応しい、得体の知れない不気味な音が鳴り響いていたのも、気のせいではないだろう。
 今作に限った話ではなく、登場人物たちがそれに縛られていることに自覚を持たない、特殊な規則や構造が多くのホン・サンス映画の骨組みとなっていることは、ここで言うまでもない。それは、この文章における重箱の隅をつつくような真似をせずとも、多くの観客に明快に伝わるようなものであることも多い。重要なのは、その中で右往左往する彼らの存在が、我々の日常と地続きにあるとしか思えない「実在感」を伴っていることであろう。その感触の正体を探るのは別の機会に譲るとして、ホン・サンス映画の「面白さ」の一因となっているのは、こういった自然主義的な人物たちの立ち振る舞いと、非人間主義的といってもよいシステマティックな構造の両立にあるのではないか。それらが互いに邪魔することなく、かといって完全に独立するわけでもなく、せめぎ合いながらも依存する関係に置かれた、持ちつ持たれつの絶妙な調和を生むことで、ホン・サンス映画が唯一無二の存在として成立し、我々の足を映画館へと向かわせ続けることになっているのではないだろうか。


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