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『ヒキコモリ漂流記』あとがき



拙著、『ヒキコモリ漂流記』が刊行されて早3年。
有難いことに、これが瞬く間にベストセラーとなり、それをキッカケに、本業のお笑いの方でも再ブレイク……などという事実は全くない。


当時、筆者の頭をチラリと過った、妄想ストーリーである。
現実には、売れない芸人が本を出したというだけ。
とはいえ、それなりに反響もあり、仕事の面でも多少の変化があった。
 



一つは、文章を書く仕事をするようになったこと。
どの業界でも同じだが、出版界にも奇特な人間が少なからずいるようで、
「あれ?コイツ、まあまあ書けるんだ!?」
とでも思っていただけたのか、ネット媒体や雑誌、新聞での連載オファーが幾つか舞い込んだ。


その中には、かつて産地偽装ポエム、『僕のランドセル』でお世話になった、あの地元新聞社の名前も。
かくして、30年ぶりに筆者の駄文が掲載され、故郷に錦ならぬ、故郷にコラムを飾ることになる。
人生とは、数奇なものだ。

 
更に今年(執筆時)に入ると、そんな作家ごっこの一つ、とある月刊誌での連載が、『編集者が選ぶ 雑誌ジャーナリズム賞 作品賞』に輝いた。
自ら“輝いた”などと書くのもみっともないが、この賞、文字通り大手出版社の編集者113人の投票により決まるもの。
「物書きのプロに認められた!」
と率直に嬉しかったし、何より、四十を越えて貰う表彰状はまた格別なのだ。
……ご容赦願いたい。
 


受賞に加え、すぐさま書籍化されたという話題も重なり、しがない一発屋にしては珍しく、取材される機会が増えた。
つい先日も、記者の方相手に、件(くだん)の連載を纏めた著書、『一発屋芸人列伝』について、大いに語ってきたばかりである。
その席でのこと。



インタビュアーの関心は、『一発屋—』の内容のみならず、仕事、趣味、子育てと多岐に渡り、いつしか前作である『ヒキコモリー』にも及んだ。
「なぜ、ひきこもったのか?」、「その間、どんな心境だったか?」……訊かれるままに、14歳から20歳までの我が隠遁生活、その顛末を振り返る。
 

実は、本書『ヒキコモリー』の出版以降、“ひきこもり問題”(と世間が呼ぶもの)について、意見を求められることが何度もあった。

専門家でもないのに、“意見”など偉そうで気が引けるのだが、自ら過去の体験を恥ずかしげもなく披露し、本にまでしたのだ。
今更である。
自分で蒔いた種……というのも妙な物言いだが、そういう義務もあるのかもしれぬと、腹を括って全てお受けしている。



いくつも取材を受ける内に、気が付いたことがあった。
ひきこもり関連のインタビューでは、お決まりのパターンがあり、特に場を締めくくる際、それが色濃く表れるということである。

もはや、ある種のテンプレート……呑んだ後の〆のラーメン、漫才の「もうええわ!」と一緒。

その日もご多分に漏れずで、取材もそろそろ終わりという頃合いで、
「でも、その6年間があったから、今の山田さんがあるんですよね?」
……これまで幾度となく耳にしてきた、馴染みのある問い掛けが、記者の口から飛び出した。

馴染んでいるのは先方も同じらしく、その口振りは質問というより確認に近い。

筆者が売れっ子のスターならまだしも、一発屋などと揶揄されている現状では、「今の山田さん」と持ち上げられたところで、
(“今”調子悪いけどね……)
と気まずくなるだけ……いや、そんなことはどうでも良い。

引っ掛かるのは、質問の根底に流れる、
「全ての時間があなたの糧になっている」
という考え方だ。

ひきこもりの話をする際、美談テイストの着地を好む記者の方は多い。
筆者の経験上、十中八九そうだと言っても過言ではない。

こちらも一応タレント。
一発屋とは言え、芸能人の端くれである。
「そうですね!」
と瞳を輝かせ、
「あの時の経験が、今の自分の役に立ってます!!」
とでも返しておけば無難なのは百も承知だが、思ってもいないことを口にするのは寝覚めが悪い。



何しろ、失ったのは10代の多感な時期の6年間。
得られたはずの経験値は質・量ともに膨大で、大人に置き換えれば、懲役2~30年を務め上げ、ようやく娑婆に出て来たのと変わらぬのではなかろうか。

とにかく、筆者自身、
「取り返しがつかないことが多すぎる……」
との後悔の念が強いので、いつもこう答えている。
「いや、あの6年は完全に無駄でしたねー……」
勿論、あくまで「自分に限って言えば」と前置きした上での話。
人それぞれのはずだが……不評である。
記者の方は、途端に冷や水を浴びせられたような表情となり、
「家に閉じこもっているより、外に出て、友達と遊んだり、勉強や部活に励んだりした方が、充実してたでしょうし、楽しかったでしょうねー」
と続ける頃には、
「へー……」
と相槌も力を失い上の空。

中には、
「そんな風にしか思えないなんて、かわいそーな人……」
と口には出さぬが、憐みの眼差しを向けてくるものや、
「いや、僕はそうは思わないなー!?」
と何故か憤り、ムキになるものも。
もはや、筆者の人生を肯定したいというより、自分の価値観を否定されたくないだけではと思えて仕方がない。
 
どうも、世間の大部分にとって、人生に無駄があっては拙いらしい。
何しろ、本人が無駄だった、失敗だったと断じていることでさえ、
「それは違う!」
「過去を糧にして成長すればいい!」
と、なにがなんでも意味を与えようとするのだ。
まるで、“意味の松葉杖”なしでは歩けない怪我人。
こういった無駄を許せない空気感こそが、人々を追い詰めている気がしてならない。

 
大体、皆が、“キラキラした人生”を送れるわけではないし、そんな必要も義務もない。
全員が何かを成し遂げ、輝かしいゴールを切ることなど不可能である。
「人生では、自分が主人公だ!」
おっしゃる通り。
ただ、ハリウッドの超大作映画と大学生の自主製作映画では、同じ主演でもギャラは随分違うだろう。
「ナンバーワンでなくても良い。オンリーワンであれ!」
素晴らしい。
しかし一方で、
「オンリーワン……結局、何かしら特別でないと駄目なのか……」
と恐ろしくもなる。
ほとんどの人間は、ナンバーワンでも、オンリーワンでもない。
本当は、何も取柄が無い人だっている。
無駄や失敗に塗れた日々を過ごすものも少なくない。
そんな人間が、ただ生きていても、責められることがない社会……それこそが正常だと思うのだ。


 




只今、43歳。
これまでの人生は汚点だらけ。
現在も、上手くいかないこと、面倒臭いこと、しんどいことばかりで、本業のお笑いもパッとしない一発屋だ。
それでも、まあ、家族も持てたし、たまには楽しいこともある。
だから、「僕」は大丈夫だ。
 
2018年 夏


※若干の修正を施しました。
(2021年5月)
 
 
 
 
 

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