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豊臣秀吉による北条征伐のきっかけとなった名胡桃城 [続日本100名城][群馬県利根郡みなかみ町]

(2023年4月攻城)



青春18きっぷを利用し、高崎駅から上越線に乗り換えてやってきた後閑駅。

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後閑駅から約3km、歩くこと約30分の道のりだ。
最初、国道の背後にある山が名胡桃城かと勘違いして、山登りの格好をしていなかったからちょっと焦った。

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利根川の向こうに見えているのはもしや?

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そう、名胡桃城である。

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室町時代にこの地一帯を支配していた国衆の沼田氏の一族が名胡桃館を築いたのが始まりだと言われている。天正7年(1579年)、沼田城を支配していた北条氏から奪取するために武田勝頼から命を受けた真田昌幸が前線基地として築いた。

で、その翌年に調略で沼田城を手に入れるんだが、まあその後も色々大変よ。


武田家滅亡後は織田家家臣、滝川一益に与えられちゃうし、本能寺の変の後は武田遺領をめぐる戦い、天正壬午の乱が起きちゃうし。その時に真田昌幸がこの地を取り戻すが、北条氏との沼田領をめぐる争いは終わらず、これが原因で徳川氏と戦ったり(第一次上田合戦)と、、、

そんな中、天下統一を目前にしていた豊臣秀吉が大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令し、この沼田問題も名胡桃城を含めた全体の三分の一は真田領、それ以外の沼田城を中心とする三分の二は北条領と定め、北条氏へ沼田城の引き渡しも行って、これで解決か?と思いきや、、、

沼田城城代の北条氏家臣が名胡桃城を攻め落としちゃった。


これには豊臣秀吉は激おこプンプン丸で北条征伐に動き出したという…。ざっくり端折って書いたが、そういう曰く付きのお城なのだ。



さて、名胡桃城の縄張り図。

名胡桃城縄張り


城址の一部を国道が分断しているが、きちんと整備されていて見学しやすい。



馬出、三郭、二郭、本郭、ささ郭と主要郭が直線に並ぶ連郭式の山城である。

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馬出跡。

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馬出と三郭を隔てる堀切。

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三郭。

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案内板によると、二郭へ渡る土橋のところに薬研形の三日月堀が見つかり、築城当初はここの三郭が馬出だったということがわかっている。で、その後、城を拡張して三郭ができた、と。




二郭の喰い違い虎口(南側)

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三郭と二郭を隔てる堀切。

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二郭。

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建物の柱跡が残っていたようで、分かりやすく展示されている。



二郭の喰い違い虎口(北側)

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本郭側から見た方が分かりやすいかな。直線侵入を許さない。




本郭へ。

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二郭と本郭を隔てる堀切。

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本郭。

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名胡桃城の本郭の両側は崖面で大きく崩落していて、コンクリートで補強しているとのこと。なので、当時はこれよりももうちょっと大きかったはずだと。そして、虎口、建物の跡についてはよく分かっていないとある。




そして、ささ郭へ。

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ここの堀切が1番深いためか、ちゃんと階段で渡りやすいように整備してある。
土橋があったが、保存のために埋め戻されている。




ささ郭。

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両側は土塁で狭い通路だったらしい、右側には自然石を3−4段積んだ石積みがあったが、これも保存のために埋め戻されている。



この辺りが搦手門跡で礎石もあったが、これも保存のために埋め戻されている。

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袖郭。そしてその先には後閑駅があるはず、、。

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現在、駐車場となっているところが般若郭跡で、名胡桃城の曲輪の中で1番大きいものになる。ここも掘立柱建物跡が見つかっている。

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そして、室町時代には名胡桃館があった場所ではないかと言われている。




般若郭から三郭、二郭を眺める。

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堀切、曲輪跡が分かりやすく残っていて、きれいに整備されてるよなあ。




すぐそばには案内所もあり、歴史ガイド案内もあるとか。

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名胡桃城は山城ってことで、トレイルを登っていくのかと思いきや、車でサクッと来れるような場所でちょっと拍子抜け。


沼田城の枝城、この小さな山城がまさか北条氏滅亡のきっかけになるとは…。



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