駅のホームから超間近に見える福山城 [日本100名城] [広島県福山市]
(2020年8月の攻城記録)
愛媛県今治市からしまなみ街道をクロスバイクで走破し、広島県尾道市に到着しました。尾道からはローカル電車で再び岡山方面に戻ります。
が、その途中に、1615年の一国一城令発布後に作られた福山城があるってことで立ち寄ることにしました。「大規模な新規築城による近世城郭では最後の例」となったとあります。完成は1622年。
江戸時代に入ると、城は一国につき一つにしろってことで、それまでに建てられたたくさんの城が廃城となっていくわけですね。で、新しく城を作るにも幕府の許可がいるわけですよ。そんな中で作られたお城なのですね。
福山駅で降りたら、目の前にドン!と月見櫓と伏見櫓が見えているではありませんか。めちゃくちゃ近いです。これは駅もかつては城内にあったとみて良いでしょう。
こんなに駅近な城址を訪問したのは甲府城以来でしょうか。
明石城は少し駅から歩きましたしね。
入り口にかつての福山城の縄張り図がありました。
現在地はすぐ駅近くの場所なので、三の丸は駅や福山駅周辺の町になってしまったようです。そして船着場もあったようですね。
そして、こちらが現在の福山城址になりますが、本丸と二の丸部分が残っているという感じでしょうか。
城の入り口である大手門は駅の向こう側にあり、おそらくもう残っていないと思うので、城址公園内に入り口に向かうと、正面に伏見櫓がお出迎えです。
この櫓はその名の通り、伏見城の松の丸東櫓を移築して建てられています。
筋鉄御門ですが、こちらも伏見櫓と同様に、伏見城から移築されています。
もちろん、この伏見櫓、筋鉄御門は重要文化財に指定されています。
筋鉄御門をくぐると、そこは本丸でした。
この辺りに城主たちが暮らす御殿があったんでしょうかね。
こちらも重要文化財の鐘櫓です。
現在はソーラーパネルを電源とした鐘付き装置によって、毎日6時、正午、18時、22時に鐘が鳴るそうです。
天守は外観復元天守です。残念なことに第二次世界大戦時の空襲で天守が焼け落ちてしまいました。(戦争許すまじ)
中に入りたかったのですが、朝早すぎてまだ開場していませんでした(涙)
本丸の井戸でしょうか。
そして、庭園でしょうかね。
こちらは御湯殿。
座敷と湯殿(蒸し風呂)で構成されていたとのことですが、こちらも戦後に再建されたものになります。(しつこくいうが、戦争許すまじ)
そして、駅からも見えていた月見櫓です。
こちらも福山大空襲で焼失し、再建されたものになります。(まだしつこくいうよ、戦争許すまじ)
本丸の東側、月見櫓の北側に鏡櫓。
こちらは明治時代に廃城になり取り壊されたものを再建したそうです。
鏡櫓の出入り口から本丸を後にして、二の丸方面へ。
今は曲輪跡と石垣を残すのみになっています。
おっと、福山城を築城した水野勝成の銅像です。
関ヶ原の戦いの後、備後と安芸を治めていた福島正則が(幕府に無断で広島城を改修したとかなんとかで)武家諸法度違反で改易されます。その後、徳川家康の従兄弟である水野勝成が毛利氏などの西日本の有力外様大名の抑えとしてこの地にやってくるわけですね、、。
かつては中国地方を支配していた毛利氏を萩に閉じ込めてもまだ気にかかるのか!
と、まあ、幕末の動きを見たら、結局は睨みが利かせられなかったようですが。
天守の裏手に回ってみると、天守の礎石がありました。
さて、見るものは見たので、福山駅へ戻りましょう。
ん?櫓台跡と思われる石垣の上の方がなんかおかしくありません?
明らかに後から修復した跡がありますね。
石垣を見るのが好きなので、じーっと見てしまいます。
はて、ここはどういったところなんだろうか?
城の外に出ても石垣はついつい見ちゃいますね。
石を切り出した跡とか、石を切り出すところを間違えちゃいましたね?的な跡を見ると、築城時の様子を想像して何だか嬉しくなってしまいます。
つか、もうこれ、修復作業が適当になってませんかね?
明らかに時代のテイストが変わってますよ。
手前の石垣は明らかに、、。
石垣といえば、こういう刻印を見つけるとたまらんですね。
次に来る機会があったら福山駅や街中をぶらぶら歩いて、城の名残を探したいと思います。
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