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戸次川古戦場跡と鶴賀城址 [大分県大分市]

(2020年10月の攻城記録)


さてさて、今回は戸次川古戦場跡と鶴賀城址へ行ってきた話です。
九州覇権にほぼ王手をかけ、勢いづいた薩摩の鬼島津がやってくるー!と豊臣秀吉に泣きついたソーリン様のもとに、四国から仙石秀久を軍艦として、十河、長曾我部親子の先発隊が大友館に到着します。

島津は大友館から15kmほど離れた鶴賀城を取り囲みます。
秀吉から本隊が到着するまで待っていろよと言われていたのに、長宗我部親子の止めた方がいいという意見も無視して、鶴賀城救出に向かいます。

その結果、、
まんまと鬼島津のお家芸「釣り野伏せ」に引っかかり、見るも無残な大敗....。
その戦いが繰り広げられた戸次川古戦場跡と鶴賀城址を見てきました。


大分駅からJR豊肥本線で4駅目の中判田駅で下車。


ここからひたすら大野川沿いに歩きます。
この川はかつて下流の大分市戸次付近では戸次川と呼ばれていました、、ってこの川ですよ!

豊臣軍の軍艦、仙石がこの川を渡ろうと言い張ったがために、、、
流れは穏やかで、渡ろうと思えば渡れなくない感じですが、昔もそうだったのでしょうか。


炎天下を1時間ほど歩いてようやくたどり着きましたよ!

判断ミスで大敗を期してしまったことはまだ許されるとして、、
軍監でありながら、その責務を放棄し僅かな供回りだけ連れて、四国まで逃げかえった仙石秀久、まじでクソ。控えめに言ってもクソ。ついでに、ソーリンの息子、大友義統もな( *`ω´)

軍監がトンズラこいた後の混乱は計り知れない。
文武両道、性格良し、高身長、未来を期待されたイケメン長宗我部信親は22歳の若さでこの地で討死。見事な最期だったそうで。゚(゚´Д`゚)゚



長曾我部信親が討ち死にした場所もすぐ近くにありました。

鎮魂碑に長曾我部信親の子孫の方々の名前が!
長曾我部家は大阪の陣で滅亡したと思ったのですが、信親の娘の流れ?なんでしょうか。ちょっと気になりますね。



そして、そこから1−2kmほど離れた山崎台地に信親の墓所がありました。

確か、信親の亡骸は島津が丁重に扱い、四国の元親の元に返されたはずなんですけれどもね。



そして、戸次川の戦いで十河氏も討ち死にしました。



さてさて、仙石たち豊臣軍が救出に向かった鶴賀城にも行ってきました。
城址入り口そばに、鶴賀城城主だった利光宗魚のお墓がありました。

島津に城を取り囲まれ、数十日頑張って応戦したものの、補給路を立たれ、武器弾薬はつき、落城してしまいます。



さて、鶴賀城は山城ですので、山登り開始です。



地元の人たちのハイキングコースとも、メジャーな観光スポットとも言い難いため、終始、ずっと一人ぼっちでの山登りでした。これで迷うとやばいやつですね。


まずは穀物倉跡。
案内板を置いたりして、城址の整備がきちんとされているので助かります。



二の丸から三の丸にかけて防塁跡が残っていました。



そして、三の丸跡。



ここは二の丸跡ですね。



二の丸から本丸へ向かうところに堀切跡がありました。
尾根をスパッと切って、敵が侵入しづらいようにしています。



そして、畝状堅掘跡。
これは登ってくる敵が横移動を容易にできないように、そして上から効果的に攻撃できるように土塁と堅掘を交互に斜面に沿って作っているんですね。



ということで、本丸に到着です。
と同時に、利光山山頂(193m)のようです。山の名は城主の名前なんですね。



ん?縄張り図がありました。
というか、これは登山口に置いて欲しかったなあ。



本丸からの眺め。大野川がよく見えますね。

鶴賀城から戸次川の戦いがよく見えていたんだろうなあ、、。
鬼島津の釣り野伏せの伏兵も見えていたけど、周りを取り囲まれているから伝えられず、もどかしかったんだろうなぁ、と川を眺めながら想像してました。


鶴賀城址を後にし、来た道を戻るのが気分的に嫌だったので、近くの竹中駅に向かいました。大野川と鶴賀城址を眺めながら、戸次川の戦いの様子を想像していました、、。



と、竹中駅に着きましたが、周辺には何もない、、。
自販機もない、、次の電車までまだ30分以上もある、、、。

戸次川古戦場跡と鶴賀城址へ行かれる際は「車」で行かれることを強くオススメします。


サポートして頂けると単純なのでものすごく喜びます。サハラ砂漠の子供達のために使います。