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徳川家重臣、酒井忠次が城代を務めた吉田城[続日本100名城][愛知県豊橋市]

(2023年1月攻城)

青春18きっぷで静岡県掛川市から、浜松市を経由して、愛知県豊橋市へやってきました。ついに遠江国から、徳川家康の出生地である三河国へ。


豊橋駅すぐそばのホテルを取り、お散歩がてら向かったのは吉田城です。


吉田城は戦国時代は今川氏の影響下にありましたが、桶狭間の戦い後はその影響力が弱まり、徳川家康により攻略された後は、徳川家重臣の酒井忠次が城代を勤めます。

信長公記には、高天神城を救援するために、織田信長親子が吉田城に着陣し、吉田城を出て高天神城に向かう途中、城が落ちたと報告を受けて引き返します。で、家康は浜松城からやってきて信長にお礼を伝えたとあります。

豊臣時代は、家康が関東に移封されると、池田輝政がやってきます。江戸時代は東海道の交通の要所として、徳川の譜代大名が変わるがわる置かれて、明治時代まで吉田藩として続いていたとのこと。



おー、信長も来た事がある城ですか、では、早速行ってみましょう。


おっと、いきなり大手門跡の案内がありました。
大手門の遺構は見る影もありません。この案内碑のみです。

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三の丸の跡地には豊橋市役所がありました。

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すぐそばにある豊橋公園入口に三の丸を取り囲む土塁跡がありました。

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公園の中に入ると、吉田城址の案内板がありました。

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公園として整備されていて、遺構はあまりないような感じですね。

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と思ったら、本丸周辺は門跡、堀跡と見応えありそうです。

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南多門を抜けて本丸へ。

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鉄櫓(模擬)

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これは多聞櫓の石垣跡でしょうか?

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登ってみました。
豊川を背にした天然の要害に吉田城は建てられていたんですね。

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こちらは北多門跡。

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北多門跡を出ると、腰曲輪跡と川手櫓跡があります。

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腰曲輪跡から鉄櫓跡を見上げてみました。

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野面積みの石垣いいなぁ、圧巻!(石垣好き)


おっ!堀跡です。

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当時は水堀だったので、結構深かったんでしょうね。



いい眺めです。

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また本丸に戻ってきて、本丸を取り囲むようにある多聞櫓があった(?)石垣跡を見て回ります。

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本丸井戸跡。

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本丸の東側にある門跡です。

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東御門跡を出て、

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橋から、本丸と二の丸を隔てる堀跡を見てみました。

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二の丸の土塁跡。

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二の丸御殿跡。

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本丸を取り囲む堀跡。

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とこんな感じで城内をあちこち見て回っていたのですが、、

城内あちこち見て回ってたくさん写真を撮っていたのですが、なぜかiPhoneのカメラが調子悪く、撮影できたと思って、写真フォルダを見てみたら、真っ白のものばかりという謎現象が起きて、何度も取り直す、見直す、一部真っ白になっているの繰り返しで、そうこうしているうちに日が暮れて退散となってしまいました。


また、吉田城に来る機会があったら、今度こそしっかり遺構を写真に収めたいと思います(涙)


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