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文禄の役で毛利輝元により築城、釜山倭城 [韓国・釜山広域市]


(2024年3月攻城)


ついに釜山の倭城訪問の機会を得ることができた。滞在日程の都合上、攻城の時間が限られていて1ヶ所しか行く時間はないので、今回はまず釜山倭城へ。


ちなみに、

倭城(わじょう)は、文禄・慶長の役に際して日本軍が朝鮮半島の南部各地に築いた日本式の城(城砦群)を、朝鮮側が呼んだ呼称である。

Wikipediaより

日本の天下統一を果たした豊臣秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。

文禄・慶長の役は、天正20年(1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを合わせた戦役の総称である

Wikipediaより


釜山倭城は、1592年文禄の役で渡海した日本軍が釜山周辺の城を攻め落とし、釜山鎮城があった場所に、毛利輝元が築城した。開戦から日本軍の朝鮮半島撤退までこの城が日本軍の司令塔的な役割だった。


現在は甑山公園として整備されていて、遊具や見晴らし台などが設置されており、市民の憩いの場になっている。


地下鉄駅からぐいぐいと歩いて登って行くと、幼稚園のそばに公園の入り口が見えた。そして、これはどう見ても櫓台の石垣だ。枡形?

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異国の地で見る石垣、、なんとも不思議な気分である。


公園の整備により、主郭部分の曲輪と石垣くらいで遺構はほとんどない。

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天守台があったと思われる場所から釜山の街を見渡す。釜山倭城は子城台倭城と一対の城で母城とも呼ばれていて、子城台倭城は山を降り、地下鉄の駅を挟んだ向かい側にある。


公園内をぐるりと回ると、ところどころに当時の石垣を見ることができる。

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甑山公園内に案内板があり、Googleカメラで翻訳を試みた。
釜山の地名の由来は、この甑山が海から眺めると甑(こしき)、米などを蒸す際に使う器のように見えたから、とある。

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日本語より英語に翻訳した方がより分かりやすい


文禄の役に関する部分を拡大してみる。

1940年 釜山鎮城が築城(という理解で良いのか?)
1592年4月  日本による朝鮮侵略の最初の戦闘の場所(Jeongbal将軍が戦死)
1593年5月 既存の城を破壊して、日本が石を利用した倭城を築城。
日本軍占領時は甑山が埋め立てられ、釜山鎮城の海も埋め立てられ、原型が大きく損なわれた。


と、侵略された側からの視点での解説が興味深い。でもその通りだ。

次回、釜山へ来ることがあったら、今回時間がなくて訪問することができなかった子城台倭城へ向かおう。


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