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築城の名手、藤堂高虎が築いた宇和島城 [現存12天守] [日本100名城] [愛媛県宇和島市]

(2024年7月攻城)

1595年(文禄4年)に宇和郡7万石で入封した藤堂高虎がその翌年、もともと中世の時代にあった板島丸串城の跡に築いた城郭だ。関ヶ原の戦い後に藤堂高虎は伊予国20万石を加増され、今治に転出。その後、1615年(元和元年)に伊達政宗の長男、秀宗が10万石で入封し、明治時代まで伊達氏の藩政となる。


その宇和島城の縄張りを見てみると、

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丘陵とその一帯に築かれた梯郭式平山城で、西側半分が海に面し、堀には海水を引き込んでいるので海城(水城)でもある。

外郭のラインが五角形となる縄張りは、高虎の築城時の時のものがそのまま活用されており、幕府隠密が四角形と見誤って報告したという史実から、高虎の巧妙な縄張り、空角の経始(あきかくのなわ)が語り継がれていく。



ということで、攻城開始。

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登城口に移築された武家長屋門がお出迎え。
この辺一体は黒門、桜門、潮見櫓、月見櫓、三の丸御殿があったようだが明治に入ってから破却されたのか遺構は全くない。


長屋門を抜けて見える石垣が三の丸の名残りである。

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まずは井戸丸門方面へ向かう。
急な階段を登っていくと、見事な門の石垣跡がお出迎えしてくれる。

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井戸丸跡。曲輪自体はそんなに大きくないが、井戸は大きい。

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三の門跡へ向かう。

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本丸の石垣が見えたが、草ぼうぼうだ。

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案内板によると幕末の石垣修理の跡が、打込接と野面積の境が分かるみたいなのだが草が生い茂りすぎてちょっと見づらい。

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ここは二の丸へつながるニの門跡、、かな。

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二の丸の櫓跡で、礎石が残っている。

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二の丸から見る天守と櫛形門(一の門)跡の石垣。

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櫛形門(一の門)を抜けて、本丸へ。

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本丸と現存天守。

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本丸の周りには天守をはじめとした櫓、御殿などの建物が備え付けられていたが、今は天守しか残っていない。しかし、天守は伊達家2代目の宗利が1666年(寛文6年)頃に改修し、今に残る現存天守!


総塗籠式、層塔型3重3階の現存天守だ。

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現存天守の内部はめちゃくちゃテンションあがる。

1階。

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2階

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3階

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天守からの眺め。

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天守の周りをぐるっと一周したら、藤兵衛丸跡にある城山郷土館へ。

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この建物は1845年(弘化2年)に武器庫として建てられた土蔵(現存)で、三の丸にあったものをここに移築し、現在は郷土館として内部公開している。


代右衛門丸跡。

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代右衛門丸の石垣。

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式部丸跡と井戸。

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式部丸から眺める石垣は見事なんだが、草ぼうぼうなのがもったいない。

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上り立ち門方面へ

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上り立ち門。薬医門形式で現存!しかも、創建年代が高虎時代(慶長期)まで遡り、国内に現存する薬医門では最古ではないかとされている。



上り立ち門から長門丸へ向かう途中の藤兵衛丸の石垣を眺める。

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藤兵衛丸の石垣が場内最古(慶長期)のものだが、草ぼうぼうなのがもったいない。


藤兵衛丸へ向かう雷門跡の石垣。

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長門丸跡は児童公園として整備されている。

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長門丸の石垣

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ということで、宇和島城攻城だん!
西側半分が海に面し、東側半分は山に面した天然の要害。見応え、歩き甲斐のあるお城だったな。


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