軽やかに書き続けるために。アール・ブリュット的に。

最初の投稿をしてから二回目の投稿まで、筆が進まず気がついたらもう10日も経っていた。
モーニングページを書いていて思ったのだが、多分私はこのnoteにある程度のテーマでまとめた完成度のものを出していこうと思っていたんだろうと思う。構造構成を決めた上で。
構造構成を決めて書こうとしていくと、なかなか一気に筆が重くなる。書きたいことが無いわけではない、書きたいことはたくさんある。ただ、それをうまくまとめよう、いいことにしよう、本質を抜き出そう、端的にしよう、色々な思考が立ち上がると軽やかさを失う。
もちろん端的にまとめられたアウトプットは美しいし、後から読んだときにも自分の走り書きメモとしてもいい。ただ仕事じゃないと一気に億劫になる。いや仕事にしても億劫なのではあるけど。
仕事上、構造化のスキルとかはある程度ついてきたし、部下・後輩にも口酸っぱく伝えている。ただ、こういう場所はそこまでその思考で汚したくないという感覚がある。

あと今書いていて気づいたんだけど、noteに思いついた順に書いていくと意外と今はスラスラかける。最近モーニングページをやっていての課題は、書いている最中に新たなことを思い出し、それをまた別のところにメモし、みたいなことをやっていたら、いっこうに筆が進まない。いわゆるGTDという、思いついた順にタスクをこなしていくか、メモしていくやり方で、書来始めると色んなタスクを思い出すものの、一向に筆がすすまない。ある程度一気に集中してかきあげてしまうということも大事なんだろうな。

アウトプットを書くときに、下記のステップでやっていくというがいいのかもと思った。
1.モーニングページ(ここはノートにひたすら感じたことを手でなぐり書き)
2.noteにアーティストネームで記載(ここはモーニングページで書いたことをもう少しきれいに、ただダダ漏れで書いていく)
3.2までやってここはより探求していきたいところを別でまとめる。(スプレッドシートやパワポでもいいし、他への発信でもいいし)

多分このnoteとかも書き続けていく、まずはひたすら書いていく、みたいなことが出来ると、色々進んでいくんだなと思う。

一旦このnoteも完成度を抜きにして、思考の順番に、あえて構造化を意識せずにひたすら書いていこうと思う。
頭の中に浮かんだ順番に書いていく。
ここらへんをやることがぴょんと自分の感性を感じて、アウトプットしていくことの上で大事な気がする。

そういえば小説家ってどのように構成しているんだろう。漫画家も。ある程度シナリオ、大きな枠組みがないと書いていけないと思うのだが。ある程度の基礎設計が出来たら、あとは自由に書いていくのだろうか?作者も書きながらドキドキしながら、先をつくっていくみたいな。そっちのほうが熱量とか生まれそうなきもする。

この10日で書きたいと思ったことたち、アール・ブリュットでありアウトサイダー・アートであり山伏修行、修験道であり、ネイティブ・アメリカンであり、ここらへんのところが自分の中で書いていきたいところ。

アール・ブリュットは最初私は人の名前かと思っていた。
この言葉はフランス人画家のジャン・デュビュッフェによって1945年頃に提唱されたものだそうだ。彼は精神障害者による創作物などを収集しており、このコレクションに対して「アール・ブリュット」と名付けたという。
フランス後で「なまの芸術」ということを意味する。

これは障がい者に限定された話では実はない。
この定義の中では「文化的処女性」と「純粋な独創性」を重要視した結果、精神障害者の創作物が多くなるであろうだけである。

この「文化的処女性」と「純粋な独創性」ということはなんなのか。私の理解では専門的な学習・訓練を受けていない文脈の中で生み出された作品であるということなんだと思う。なので美術大学などでまなび、何らからの文化的な影響やスキルを得ての表現というものは当てはまらないのだろう。
一方で、その表現自体が、その本人固有のものから立ち上がったものであれば、仮にその表現者が美術大学出身であろうが、何かの文化的な専門を研究をしていようがアール・ブリュットなんだろう。

これはこのnoteを書くときにもアール・ブリュットにもなりえるんだろう。
ついつい思考をして構造化して、考えたことをまとめてnoteにまとめて出していこうとおもった自分だが、書きながら自分の中に立ち上がった順番に吐き出していく。これはある程度ぼく固有のものが混ざり合っているはずだ。もちろん、「文化的処女性」と「純粋な独創性」が一切ないわけではないが。

このアール・ブリュットという概念は、もう少し表現探求の中で深ぼっていきたいと思っている。
ある側面では今アール・ブリュットという概念が進み、アール・ブリュット展覧会などが開かれていくに連れ、それが「なま」感を失い、一方でマーケットが出来、価値が評価され、ある意味固定化され、様々な人がそこで食べていけるということがおこる。
美術館に飾られるような価値付けがされた段階で芸術、アートでなくなるのではということだ。
市場が出来るというのは、一定程度枠が出来るということ、指標ができるということだ、だからその時点でそこから生み出される表現は、アール・ブリュット、なまの芸術ではなくなるのではないか。

この点は僕はよく考えたい、着目したい点である。
芸術家が、著名になりたい、自分の作品が世界を変えたい、そう思った瞬間にそれはアール・ブリュットではない。もちろんそれ自体が悪いわけではないが、広がって行くというのはある程度マーケットに規定されていくということであり、自分の根源的な欲求をそのまま出していくことが、徐々に困難になっていくということなんだろうと思う。

僕も芸術家はあまり詳しくないのだが、世界的評価が高いから、芸術性が高いとは必ずしも連動していないのだと思う。
日本で最も芸術的な世界で世界から評価されている人って誰だろう。村上隆?YSOSHIKI?坂本龍一?
村上隆は、アメリカのある種アートの価値を決めるようなグループのインナーサークルにいるし、色んな発信も様々なことに配慮しながらだ。
YOSHIKIもグラミー賞などに箔をつけるために参加し、寒い間長い間またされれながらインタビューをしてもらった、的なことを言っていた気もする。
坂本龍一もアメリカの市場に受け入れられるために色んな努力をしたのだろう。

市場に認められることによって、お金を得られる、名声を得られる。それによってまた様々なチャレンジが出来るということは間違いなくあるのだが、自分からどんどん離れていき、自分の偶像が独り歩きしてしまう中で、そこに自分固有のものを立ち上げていくことは困難になる気もする。

そこらへんがこのアール・ブリュットを探求していく中で、自分なりに見えてくるといいなと思う。


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