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3-5 形のない無形「ボウ」が伝えるのは、人類の新たなる未来の「扉」である!

「ボウ」理論は無形理論である。有形なら論に意味があるとは、論より証拠が出せるからである。

形のないものは掴みどころがなく、価値を見い出すことが難しい。この形という普通の理解を問い直さなければならない時が来た!

我々を包んでいる大部分のものは「有形」である。しかし「無形」が存在することは難しく、存在しないものの存否を問うために、無形は有形の対比でしか理解ができない。つまり、理解という有形証拠に行き着かなければ、無いものの存在を肯定されることは、未来永劫やってくることはない。「無」や「空」、「量子」や「空間」や「時間」でさえ、有形から完全に離脱し得ないものとなっているため、そこには有ると無いとの循環から一歩も外に出ることができないでいる。

これらの有形物は「時間」と「空間」とを携えて手放すことができない「有形な世界」の残存物となり、更なる有形を産むための、生成物である。人類は有形的に、残存物、残影に生きる生き物として進化を遂げている。ここに、有形界と無形界という二元界が人類の循環世界となって回転し始めることになってしまった。良くも悪くも、この世界観とこの世界からの脱出を目指す、次なる目標はできたということでもある。

因果という有形的な思考は、無形的な部分にまで浸潤してしまっている。これを「有形的無形」意識と呼ぶ。完全な無形となり得ない、中間世界の存在である。

とにかく、因と果は、とてもしつこいものである。因果の結合や連続を解くことはできないという、終生因果という、どこまでも付きまとって逃れられない、残像に怯えて生きることを、人生という。

有形と無形もまたしかりである。そして、中間有形、中間無形もまたしかり。ついに、完全無形に到達することはない。人類の思考の限界は既に見えている。有形のものは時とともに滅びるしかない。このことを全ての人は理解しているし、その中に生きていると、半ば諦めている。が、しかし、それは本当なのだろうか?

これは、与えられたという、思考から離れることが、少しでもできれば、青虫から脱皮して蝶となるように、人類の新しい輝かしい未来の出口に到達しうる、ギリギリのラインにまで差し掛かってきている。

苦しむのはもうやめにしよう! 誰かの思考に縛られるのはやめにしよう! 我々の基本は「無形」にある。有形は無形のほんの一部であり、思考現実を形成する、形成世界の単なる残存物に過ぎない。

ここまで長く話したものは、「無形」な「ボウ」が「有形」な「因果」の「中和」物質としてあることの、前置きである。

「ボウ」理論はたんなる空論ではなく、存在論の全てと正面から対峙する、人類史上かつてない挑戦なのである。この先もぜひお立ち寄り下さい!

我々の未来はこの「ボウ」にかかっている。「ボウ」をぜひ手にして欲しい。

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