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大行進は続いていく

 当たり前だけど僕はいつの間にか生まれていた。気がついたら僕は幼稚園の広い体育館(それは広い体育館というよりは、きっと僕が小さかっただけだ)に佇んでいた。一人で、だ。体育館には通っている園児一人一人の醜くいびつな似顔絵が、所狭しと並べられている。肌色で、黒の髪の毛で、子供特有の描画の輪郭で。そのどこかに僕もいる。僕も描かれている。けれど見つけ出すことはできない。やがて時計の針は正午を指す。

 僕は取り残されていた、孤独だった。桁の不明な光年の空間にて、たったの一人で生を受けていた。それが僕のもっとも古い、僕自身の記憶だった。

 僕は連続していたし、きっと世界も連続していた。睡眠による断絶はあったけれど、連続しているというのは自明だったように思う。けれど、過去の出来事を思い出そうとするとそれは不連続になる。記憶や思い出はポツポツと点在してそこに浮遊しているだけで、それらに強固な繋がりや連続性はない。体育館の景色も、連続ではなく点在として僕の記憶に残っている。

 そして、気がついたら僕は現在に佇んでいた。現在までの連続を僕は知覚していない。現在進行形の連続性は感じ取れるのに、時間の経過とともにそれが過去の記憶となると、途端に連続性が失われる。そして点在する記憶の大部分は破棄され、一部の印象的な場面のみが掬い上げられる。僕の経験した年単位の感覚や感情は、僕には一切の断りもなく無慈悲にデリートされる。

 これからも僕は、未来の現在に佇み続け、過去の現在をデリートし続ける。無慈悲に、無意味に、無感情に、管理人のような高位の存在によって、いらないデータファイルをそうするみたいに、デリート、デリート、デリート……。

 僕は僕として経験した感情さえ失われてこれからどうする? 生き続けるしかない、どちらにしても。

 僕は今この記事を書いている。この記事を書いている僕は現在進行形の僕であるが、この現在が過去になったとき、この記憶はデリートされると自信を持って言える。僕の数十年の人生において、今この瞬間の現在進行形はあまりにも脆弱だからだ。しかし脆弱で微弱な電流にも誠実さや確かさ、希望を見出してきたはずだ。それはきっと過去だってそうだ。デリートされた過去だってそうだったはずだ。自信を持って言える。言えるのに、見出したはずのものはすでにデリートされた。僕が持っているのは、自信を持って言える、という経験則からくる論理的導きだけだ。デリートされ、現在進行形は蓄積され、またデリートされ、また現在進行形は蓄積され、残ったわずかな老廃物だけが澱のように堆積し、僕という存在の過去として定着する。それはちょうど、細胞分裂によって体内の細胞が入れ替わるようなものなのかもしれない。

 数年間、具体的には過去四年間ほど記憶や感情も徐々にデリートされていっている。それはポジティブな側面もあれば、ネガティブな側面もある。僕個人としては、ネガティブな側面のほうが大きいように感じる。けれど、それでも続いていく。ずっと、ずっと、これからも、ただただ、道は続いている。僕は忘れる、僕は覚える、それでも続いていく、ただ歩いていく、歩いて歩いて、それでも道は続く。忘れ、覚え、悩み、叫び、立ち止まり、振り返り、また前を向き、歩く。それでも、やはり道は続いていく。

 僕は僕でなくなる、徐々に。それでも道は続き、僕は歩き、未来の僕は形成される。それは確かに僕ではないけれど、それは確かに僕でもある。奇妙なことだ。しかし、現在進行形の僕も、過去の僕から見れば奇妙としか言うことのできない偽りの僕だったはずだ。けれど、現在進行形の僕ははっきりと自信をもって、これが僕自身であると断言している。きっと過去の僕は絶望するだろう、同じように、未来の僕を見て現在進行形を僕は絶望するだろう。けれど、それは確かに僕だ。紛れもなく、きっと。

 大行進は続いていく。あらゆるものを巻き込んで、引き連れて。それでも大行進は続いていく。あらゆるものを忘れ去って、置き捨てて。それでも道は続き、僕は歩き、不気味な大行進は続いていく。

 

 

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