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10年死んで、100年泣いて、1000年生きる

 たんぽぽの花が咲いていた。きれいな花だ。僕はそれを摘むと口元に寄せて匂いを嗅ぐ。草花特有の湿った香りが鼻孔をくすぐる。その香りはなにかに似ていた。おそらく、ある意味で大切ではなく、ある意味で大切ななにかに。僕の頭では古ぼけたフィルムが再生される。コマ割りの景色が光にさらされて色褪せた。その景色のなかで僕はまどろみながら立ち尽くしていた。昨日のことを考えて、明日のことで憂鬱になっている。草むらは優しい風に撫でられ、緩やかに時間を慰めていた。

「君はどこにいくの?」

 と君が訊いたので、

「もう少しだけ先のフィルムだよ」

 と僕は答えた。

「フィルムの終わりはあるの?」
「あるけど、僕にはまだ分からない。いきなりぶっつりと切られるかもしれない」
「そうだったらイヤだね」
「でも、僕にはどうしようもないことだよ」
「眠りましょう」
「まだ夕方だ」
「時間なんていつでもいいでしょう?」

 たんぽぽの花が咲いていた。彼らはいつからそこに咲いているのだろう? 何十年も昔か、あるいはつい最近からなのか。僕には分からない。僕がうんと小さいときの景色を思い出そうとしても、それは不定形で輪郭がない。たんぽぽの黄色は焼き付いていたようにも、焼き付いていないようにも映る。君はいったいどこから来たんだい? 君は答える術を持ち合わせていない。けれど微かな香りがフィルムにこびりつく。こびりついてとれない。

 君がマッチ棒を擦っている。火がついて、火が消える。火がともって、火が絶える。火が生まれて、火が死ぬ。

「生まれるべきだったなにかのために」

 君はそう言う。

「そんな事柄を集めても無意味だ」
「けれど行為に意味はあるんだよ」
「僕には分からない」
「また死んでいく。誰にも感知されずに、誰にも理解されずに、力学的な法則を無視して、精神的は拘束をあざ笑って」

 火は燃え移る。空気が焼け焦げる。酸素が失われて時は止まり、頭上のふくろうは飛び立った。僕はたんぽぽを握りしめながら優しく思う。数か月前の冬のこと、君のこと、事象に意味はないということ。

「廃屋で待ってるよ」
「きっと君を見つけ出すことはできない」
「けれどあなたは探すんでしょう?」
「僕にはそれしかできないから」
「優しい人。あなたが幸せになりますように」
「君も幸せになりますように」

 忘れ去られてしまった僕らのために。音色はいつまでも響いて、ふくろうは僕らに知恵を授ける。湿度と眠りの狭間で何度も後悔をする。けれど……今は進むべきなのだ。


 僕はフィルムを取り出す。そうして少しだけ泣いた。まだまだ多くの種がまかれるはずだった。それが終わった。悲しいけれど、悲しむためのエンドロールは用意されていない。カーテンコールのない僕らの舞台では、壊れたロボットが同じ言葉を繰り返す。

『もういちど、もういちど、もういちど、もういちど、もういちど、』


 ***


 ふくろうは僕に語りかける。

「私の授けた知恵で君はなにをするんだ?」
「それを教えてくれるのが君のくれた知恵じゃないのか」
「知恵は知恵でしかない。君は君でしかない。だから、君は知恵を持った君でしかない」
「こんなものいらなかったんだ」
「なら奪ってやろうか」
「そうしたら幸せになれるんだろう?」
「君は勘違いをしているんだ。それはちょうど、大きな杖のようなものなんだ。君は杖を使いこなせていない。使いこなす気すらない。そんな君が知恵を持っていても仕方がないだろうね。そして、奪っても同じように、仕方がないだろうね」
「君が火を放ったのか?」
「火はひとりでに燃え移る」
「君が僕を陥れたのか?」
「君はひとりでに不幸になる」
「君はいったい誰なんだ?」
「お互い様さ。君もいったい誰なんだい?」

 そう言うと、ふくろうはケタケタと不気味な笑い声をあげて飛んで行った。
 僕は思い出そうとしていた。純粋で清潔さを保った記憶を。けれど上手くいかない。もう一度眠るべきか、本当の意味で目覚めるべきなのか。君はどこにいったのか、どうして寒いのか、毛布の中にくるまって死んでしまう僕らのために。プールの中で溶けて死んでしまう僕らのために。高度3万フィートで、僕らがまた笑い合うために……。

「ねえ! ここはとっても気持ちがいいよ!」

 君は雲の上の鉄塔につかまりながら、網目状の地上を見下ろしていた。そこに僕もいたし、君もいた。どうしようもなく穢れた僕たちが蠢いていた。それらを見下ろして、彼女は笑っていた。

「雲の上はとっても暖かいんだ!」

 君は言う。君は笑う。君は駆ける。君は飛ぶ。

「ここにおいでよ! きっと君なら飛べるはずだよ。ううん、恐れはないよ、不自由もないよ。ただ、からっぽすぎて少し怖くなっちゃう。でもからっぽすぎるくらいが正解なのかもしれないよ。きっと、ここは観測されない地球の外れなんだよ。神様の憩いの地なんだ。花々は神様のために咲いていて、日光のために生きるんだよ。きっとそうなんだよ」

 君は青空の間を流れる。君の服の裾は青空のしずくで濡れる。けれど気にもしない。君は夢中なんだ。楽しそうに笑うんだ。鉄塔は崩れて、僕たちは再会する。そして再生する。フィルムに焼き付いたたんぽぽの香りを思い出す……。


「ふくろう……」
「君の力で歩くんだ。君にはそれができる」
「ありがとう」
「まあいいさ。まだ君は生き続けるんだ」

 そう言うと、ふくろうはどこかへと飛び去った。


「ああ、そうだ、ええっと……はは……君はとっても優しい。優しさは君を傷つける。優しさは僕を傷つける。そして、優しさは……」
「そうだね……あなたもそうだよ、あなたもとっても……そう、とっても優しい人なんだ」


「だからどうか、幸せになりますように……僕たちは願う」



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