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日記

 市の図書館で詩集を読んでいた。適当に2、3冊を手に取り読書スペースへと持っていく。無個性な長机と決して上等とは言えない椅子が置かれたそこには人の姿はなかった。机の真ん中には「私語厳禁。感染症対策のためスペースを空けて」と書かれていた。すごいものだ、と思う。たったの数年で『感染症』というごくごく一般的な言葉が、特定の流行病を指すものへと変化しつつあるからだ。

 僕はふわふわとした気分のまま、57577の文章をなぞっていく。僕が生まれる数十年も前に死んだ詩人の句。この詩人は第二次世界大戦も知らなければインターネットも知らない。もちろん、流行病のことだって知らない。彼がそれらを経験していたら、彼の句の性質は変化したのだろうか。どうかは分からない。

 淡い日差しが図書館の中に舞い込んでくる。その日差しのせいで、窓際の本の背表紙は色あせていた。少しは対策をすればいいのに……と思ったけれど、色あせた背表紙たちの群れは不思議と空間に調和している。だから、このままでいいのかもしれない。

 午前中は誰もが眠そうだ。図書館の職員も、日差しも、書架の本たちも、この空間も、そして僕も。みな等しくけだるげで、ある程度の眠さを抱えている。

 眼鏡のレンズを通した文字は鮮明に映る。反対に、眼鏡のレンズを通らない視界の端は滲んでぼやけている。作業をしている職員や腰の曲がった老婆が滲んだ世界で生きている。ふと顔をあげればそれらは鮮明になる。不思議なものだ……僕という生命の視力はすべて、このちゃちなレンズに握られている。

 一時間ほど詩集を読んだ後、それらをすべて元の場所へと戻して外に出る。暖房の効いていない外では、首筋を撫でる風が僕の体温を奪っていく。

 歩道橋を渡っていると、登校中の大学生の集団と多くすれ違う。もうすぐ昼どき、おそらく2限や3限へと向かうのだろう。僕にもそんな時期があったなと考える。そんな時期、と言うほど昔のことでもない。けれど、なぜかそれは遠い昔のことのように感じられてしまうのだ。

 大学へと向かっていく学生たちをしり目に、僕は駅近くのショッピングモールの中にあるマクドナルドへと入った。店舗に入った途端あの独特な香りに包まれる。あの、マクドナルド特有の香りだ。朝マックの時間は過ぎていたので、僕はチキンフィレオのセットを頼んだ。サイドのポテトをナゲットに変更し、飲み物はスプライトにする。思えば、僕はマクドナルドに行くといつもスプライトを飲んでいるような気がする。

 席についてガラス越しに外の風景を見ていたら、すぐに店員が僕の元へとバーガーを持ってきた。僕はそれを受け取り、トレイの上に置かれたレシートを眺める。案外高いものだ、とため息が出てしまう。300円くらいで食べることができればいいのに。

 スマホを弄り、ツイッターを見ながらバーガーを食べる。ときおり外を見る。ここからは駅の改札が見え、また学生たちがぞろぞろと出てくる。彼らを見つめて、なにかを考える。なにを考えているのか、自分でもよくわからなかった。小説を書くべきなのかもしれないと考える。けれど、書く理由が見当たらなかった。ハキハキとした店員の声が店内に響く。彼女は何歳で、いつからここで働き、時給をいくら貰って、そしていつまで働くつもりなのだろうか、なんて考える。そして彼女の目に僕はどう映っているのだろうか。まあきっと、客Aとしか認識はされていないだろう。むしろ、そのくらいの認識でいてくれたほうがこちらも気楽だ。

 バーガーもナゲットも食べ終わり、スプライトを飲んでいると椅子を一つ分空けて隣にスーツを着た男性が座ってきた。「感染症対策のためスペースを空けて」だろうか。いや、それ以前から、彼はきっと僕のすぐ隣に座りはしないだろう。

 彼は昼食なのだろうか。そうだとしたら、わざわざ会社の昼食休憩にマックを食べるのだろうか。そもそも、スーツを着ているだけで彼が会社員だと決まったわけでもない。けれど、会社員以外がスーツを着る機会はあるのだろうか。僕にはあまり分からない。そういったものには疎いのだ。

 しばらく僕がぼーっと外を眺めていると、彼はいつの間にか食べ終わりさっさと外へと出て行ってしまった。それを見て、僕も同じように外に出る。陽は完全に頭上にあり、燦々と太陽光を振りまいていた。先ほどまでの寒さもなくなり、街も自然と活気に溢れている。けだるさも眠さもそこには存在しなかった。

 僕はしばらく歩く。海沿いの県道は整備されていて街の中心地とはまた違った景色になっている。僕はただまっすぐな道を、まだまっすぐ歩いていく。この辺りには企業が密集していて、歩いていると会社の門の前に立つ守衛をよく見かける。彼らは僕をじっと見るが、決して話しかけてはこない。当たり前だ、彼らの仕事は僕に話しかけることではないから。

 県道は隣の駅まで続いている。けれど、そこが目的地ではない。僕は途中で道を曲がり細道へと行くと、今度は線路沿いを歩く。人は少なく、出会っても散歩中の老人くらい。平日の昼間、人間は学校にいるか会社にいるかだ。僕のように出歩いている人間は少数派なのだ。

 踏切を渡り、高校を通り過ぎる。校庭に人はいなかった。高校生、僕にもそんな時代があった。そんな時代……遠い昔でもないのに、遠い昔のように感じる。今より若く、今より溌溂で、今より頭が良かった気がする。

 中学校があり、公園があり、交番がある。そしてひときわ大きな病院を通りすぎ路地を進んでいくと、蛍光色のゴミネットが僕を出迎える。今日は生ごみの日なのにペットボトルを出した人がいたようで、持ち帰られずにそこに置かれている。それに対して特に感情はない。気づいて持ち帰られるか、次のペットボトルの回収の日までそこに放置されるかだけだ。

 家に着き、中に入る。物が乱雑に置かれた六畳半の狭い部屋。窓からは日差しが差し込んでいたけれど、僕の本棚は日が当たらない場所に置いているので背表紙が色あせることはない。僕はマスクを外すとそれをゴミ箱に入れ、冷蔵庫から烏龍茶を取り出して一杯だけ飲む。その後でソファに座りスマホを弄る。そうしていると眠くなったので、そのままソファの上で布団を被って眠った。夢は見なかった。

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