vol.15 スーパーラリーマン
つい最近、「悩む」と「考える」の違いを知った。前者は、はじめから答えが出ないことで頭を使っている状態らしい。後者はその逆。明確なゴールが存在するので、前者よりも時間をかける価値がある。言われてみれば納得するが、両者の違いを意識せずに頭を回転させていたことを悔いた。
僕は、よく悩む。答えが出ないことに対して、答えを求めようとしてしまう。その様子は、さながら卓球のラリーだ。
試合開始。ラブオール。サーブ、僕。高くボールを放り、渾身のサーブ。
「この間、僕が全体の前で発表したじゃないですか。あれひどすぎませんでした?」
繰り出されたのは、打ち返しやすそうな15点サーブ。待ち構えるのは、これまた僕。
「急にどうしたのよ。何がそんなに気になったの?」
この上なく平凡なリターンが返ってくる。
「グループワークの成果を発表したんですよ。僕の班はなかなか良い結論が出なくて、出来たところまで発表したんですけど、そのときの自分の態度が……」
「それを反省してるんだ」
「はい、個人的には結論まで行き着かなかったことが悔しくてしょうがなかったんですけど、いざ前に立ったとき、緊張も相まってヘラヘラと変な言い訳を始めちゃったんですよ」
「なるほどね、でもその場は盛り上がってなかった?」
「それがダメなんですよ。内心は悔しいのに、冗談でごまかして。笑ってくれる優しい人もいたけど、それに甘えちゃった自分に腹が立ちます……」
「なるほどねぇ……。でもそんなに深く落ち込むほどじゃないんじゃない?」
「いやぁ、あれは許されないですよ。社会人失格です。あ、あと、もう訳わかんなくなって身振り手振りが多くなりすぎたことも反省してます」
「えぇ……、まだあるの……」
僕にとって「悩む」行為はこんな感じだ。自分が打った平凡な球に対して、もう一人の自分が返すもっと平凡な球。互いに中身のない応酬が続くから、ウォーミングアップのようなラリーがどこまでも続いてしまう。スコアも0-0のまま。
だから、良い結論に行き着いたことがない。終いには、悩んでいることに対して「あぁ、また悩んじゃってるなぁ」と悩んでしまうこともある。一文に「悩」が3回も登場するのだから、相当面倒くさいことを繰り広げているのだろう。「悩」のゲシュタルト崩壊だ。
次第に、この悪い連鎖を止める方向に意識が向く。ラジオや音楽でシャットダウン。稀に、この壁さえも悩みのラリーが越えてくるから厄介だ。内にためていたものが溢れて、部屋で叫んでしまうこともある。一番良いのは、他人との会話だ。何に頭を悩ませていたか忘れられる。
悩みの種が消えることはまずあり得ないので、いかに良い形でこの種を葬るか考えるようになった。どうしようもなく平凡なサーブに激烈鬼スマッシュを決めて、どうにか1ラリーで勝負を決められたら……。そんなとき、「悩む」と「考える」の違いを知った。そうか、「悩む」ことに価値がないのであれば、「考える」方へシフトチェンジすれば良いのか。つまり、ラリーの最後に「答え」を設けて、終わらせてしまえば良いんだ。
例えば。前述した悩みに「答え」を設けるとしたら。
「この間、僕が全体の前で発表したじゃないですか。あれひどすぎませんでし……」
「クヨクヨしてもしょうがないから、何が良くなかったか反省して、次は同じミスしないようにね!!!!!!!」
スパーン、と強烈なスマッシュ。気づいた頃には、背後でボールが転がる乾いた音がする。スコア0-1。コートの隅にはっきりと球の跡が残り、煙が立ちのぼる。
このポジティブスマッシュが生まれたとき、僕は感動した。根がネガティブな僕の中に、無理矢理にでも真逆のアバターを生み出し、悩みを退治してもらう。こうして、僕にとっての「悩む」は「考える」に昇華された。
日々何かに揉まれていれば、少なからず壁に当たり、あれこれ頭を回転させることはある。それを「悩む」だけで引きずってしまうのか、それとも「考える」ことで価値ある時間にできるか。その違いは、自分で「答え」を据えられるかに懸かっているのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えた、実に、生産的で、価値のある、ゴールデンウィーク最終盤だった。
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