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アトラクション授業の地平〜REM国語部会第7回目 研究会レポート

 さる8月23日、REM国語部会第6回目の活動が行われた。7月までは、テーマを「国語教育とアニメーション」とし、7月の研究会では『21世紀のアニメーションがわかる本』の著者土居伸彰氏をお呼びしてお話を伺うなどの活動を行ってきた。そして、これまでの活動の蓄積を踏まえ、8月からは「国語教育と21世紀の映像文化」をテーマに設定した。
 現在、ソーシャルメディアの発達とともに、映像文化は著しい変化を遂げている。今では「YouTube」を筆頭として「TikTok」などの映像メディアが多く発達し、若者文化に密接にかかわっていることは言うまでもない。「子供たちの将来の夢」に「YouTuber」が取り上げられるようになってすでに久しい。子供たちのメディア環境の変化に合わせ、学校教育の現場でも映像の教材化は何度も話題に上がってきてはいた。しかし、アニメーションの教材化について検討を重ね続けた知見を踏まえるならば、その他の映像の教材化に際しても、必要とされるメディア特性の理解や理論の把握などに関して議論を深める必要が大いにあるように思われる。
 そこで6回目となる今回は、渡邊大輔『イメージの進行形:ソーシャル時代の映画と映像文化(以下、『イメージの進行形』)』をテキストとする読書会を行った。渡邊氏は同書で、映像メディアとその文化的想像力によって広がる「映像圏」という概念を検討する。果たして、「21世紀の映像文化」がもたらす現代の「映像圏」とはどのようなものなのか、我々の議論の成果をレポートする。

『イメージの進行形』で語られる21世紀の映像圏

 最初に、進行役の金田さんから、今回テキストとした『イメージの進行形』についてのプレゼンが行われた。本書において渡邊氏が「映像圏」という概念を提出していることは先に述べたとおりだが、より詳しく確認しよう。渡邊氏はまず、現代において「ソーシャル化」という現象が起こっていると述べる。これは、ソーシャルメディアの発達によって視覚イメージ情報が「モバイル化/ユキビタス化/クラウド化」しているという状況を指す。どういうことか。著者は例として、往年の名作映画からニコニコ動画のMADムーヴィーまで様々なジャンルの映像作品が、スマートフォンやiPadなどを通じてひとしなみに並列化され視聴される現状を挙げる。また、我々を取り巻く映像環境という観点から見れば、街の至る所に設置された監視キャメラ映像をはじめ、高層ビルの壁に掲げられたディジタル・サイネージから電車やデパート内の広告モニターに至るまで、どこにでも視覚情報が溢れかえっている。このような、どこでも「イメージ」に囲まれ、かつアクセスが可能である状態を「ソーシャル化」と呼ぶ。そのような「イメージの氾濫状態」とでもいうべき文化状況や、その中で人々が抱くリアリティの総体を、著者は「映像圏」という語で概念化しようとしているのである。
 情報の横溢としての「ソーシャル化」は、その受容環境や現代を生きる我々の文化的な想像力そのものにも本質的な変容を迫っている。その具体的な事象を「映像圏」という語によって抉り出そうという試みが『イメージの進行形』においてなされていることなのだ。今回REMでは、国語教育との関連を鑑み、特に第3章「映像圏の映画/映像史」に注目した。なぜか。順を追って説明しよう。
 著者はこの章において、タイトルの通り21世紀における「映像圏」の概念を、それまでの映画/映像史の中に位置づけようとしている。本書で語られている映画史をまとめると、「初期映画」→「古典的ハリウッド映画」→「ポストモダン映画(ポスト古典的映画)」→「現代映画(映像圏)」という流れとなる。この流れの中で著者が注目しているのは「初期映画」と「現代映画(映像圏)」の関連なのだが、その理解を円滑にするためにはまず「古典的ハリウッド映画」→「ポストモダン映画(ポスト古典的映画)」について説明しなければならない。
「古典的ハリウッド映画」とは、ハリウッドが黄金期を築いた1917年から60年まで優勢だった映画形式を指し、我々が映画と聞いて一般的に思い浮かべる「物語映画」とほぼ同義と考えてよい。ここではアクションドラマやメロドラマに典型的な、何よりも登場人物の心理やストーリーの起承転結、因果関係をきわめて明解かつ連続的に描き出すことが主眼とされていた。しかし、60年代以降、この「物語」の求心力が急速に衰え、代わりに特殊視覚効果技術(SFXやVFX)を駆使して観客の直接的な視覚的興趣を煽る作品や、過激な残酷描写やエロティックなシーンを売りにするキワモノ映画、そして作家主義的なインディーズ系映画といった「ポストモダン映画」が台頭してくるようになる。これはつまり、映画全体がもたらす「物語」から、観客を直接刺激する個々のショット(視覚的イメージ)へと関心が移行したことを意味している。ここでは視覚的イメージは物語から自立し、それ自体が観客を刺激するスペクタクルとして機能するようになるのだ。
 そして、「現代映画」はこの方向性をより先鋭化していると言える。例えばスクリーンに映し出される映像だけでなく、座席の振動や光、煙などで臨場感を演出する4DX上映。また2016年に公開され大ヒットを記録したディズニー映画『アナと雪の女王』において、観客が映像に合わせて劇場内で実際に歌うという鑑賞形式が注目を集めたことも記憶に新しい。これらの例が示すように、映画鑑賞のスタイルは、席にじっと座ってみるということから、観客が実際に体験する、まさに遊園地のアトラクションのような形態に移行しているのである。
 では、現代映画のアトラクション的形態という特性と「初期映画」はどのように関わってくるのか。「初期映画」として著者が提示しているのは、1894年、95年から1906年、07年までの映画、すなわちトーマス・エイディソンのキネトスコープやリュミエール兄弟のシネマトグラフなど、現代の映画に直接つながる撮影・鑑賞可能な光学装置が発明されてから、これまでに見てきた「物語映画」が登場するまでの時期だ。この時期の映画は、著者も示す通り、ある有名な映画研究家の論文名によって端的に特徴づけられる。すなわち、トム・ガニングが提唱した「アトラクションの映画」という概念である。著者は「初期映画」の特徴を、以下のように述べる。

一八九五年、リュミエールのシネマトグラフ『ラ・シオタ駅への列車の到着』を最初に劇場で見た観客が驚いて席を立って逃げ出したという、誰もが知る神話化された挿話を挙げるまでもなく、こうした恐怖感、性的煽情、興奮といったある種の視覚的快楽(見世物性)の喚起こそが、何よりも初期映画の主要な構成要素であった。紳士と夫人の官能的なキスシーンであれ、ボクシングの試合であれ、少女たちの枕投げであれ、美女が躍るバタフライダンスであれ、初期映画がわたしたちに示す数々のイメージの様式は、ひとしなみに、こうしたアトラクション性に満ちている。

 そしてまた、こうした初期映画の持つアトラクション性とは、個々のフィルムが映し出す視覚的イメージの特徴だけに見られるものではないと著者は述べる。というのも、「初期映画」の頃には、上映中の活動弁士の説明や楽士隊による演奏は勿論のこと(当時はサイレント映画で、今のように映画自体に音声が入っていなかった)、幕間に軽演劇や多種多様な大道芸人や奇術師による公演が行われていたからだ。もちろんこのようなパフォーマンスをはやし立てるなどして、観客は興行に積極的に参入したのであり、当時の映画ではフィルム上映、数々の公演、そしてそれに対する観客の反応が混然一体とした映画の受容環境そのものが、映画のアトラクション性を構成する要素として受容されていたのである。
 トム・ガニングは、このような「初期映画」のアトラクション性に注目し、前述した論文「アトラクションの映画」において重要な見解を示している。つまり「初期映画」とはそのあとに続く「物語映画」の未熟な前段階なのではなく、観客への直接的な刺激、スペクタクルを重視した全く別種の映画であるという主張である。
 さて、『イメージの進行形』で語られている映画/映像史をまとめ、「初期映画」が有していた「アトラクション性」を説明するのに多くの紙幅を割いてしまったが、ここでようやく国語教育の問題へと立ち入ることが出来る。ここで鍵となってくるのが、トム・ガニングが「初期映画」つまり「アトラクションの映画」を従来の物語映画とは違う「別種の映画」と捉えたことだ。現代を取り巻く「映像圏」が、観客に直接刺激を与える方向に先鋭化し、「初期映画」「アトラクションの映画」と強い類似性を持っていることは見てきたとおりだ。つまり、現代映画も従来の物語映画とは離れた発展を遂げているということであり、それは今まで蓄積されてきた物語映画に対する研究手法・教育手法だけでは対応しきれない領域に突入しているということを意味している。
 この問題は、教育現場においても喫緊の課題である。というのも、教育現場において映像作品は文章教材の理解を促進するための副教材という認識が依然として強く、そこで映像作品に期待されているのは「物語」をより円滑に理解させる機能だからだ。だが、果たして現代の「映像圏」に生きる生徒たちに、こういった映像の受容態度は通用するだろうか。彼らは視覚情報の溢れる環境の中で、まさにイメージを「浴びる」ように、身体的に享受していると言ってよい。映画館ですら座席にじっと座るのではなく、身体行為をともなったアトラクション性を志向しているというのに、教育現場ではそのような現状を試みずに、生徒を席につかせたまま、ただ映像を見せる授業を続けていてよいのだろうか。
 これは別に、映像を見せる授業において「物語性」を放棄すべきだとか、もっと映像授業に動きを伴った活動を入れるべきだというような短絡的な話をしたいわけではない。実際のところ、我々はそういった試みを行う入り口にすら立っていないのだ。なぜなら今まで映像の「アトラクション性」について教育現場では全く顧みられてこなかったからであり(映像研究の分野ではこの「アトラクション性」はもはや常識となっている)、「アトラクション性」を教育に落とし込むための手法論や、そもそも「アトラクション性」と教育の親和性など、すべてがまったくの未知数だからである。しかしだからこそ、精力的に検討を行い、映像の「アトラクション性」が教育に開く可能性を探っていかねばならないだろう。

国語教育で求められる映像の特質①:「語りたい」という衝動を活かす

 議論はまず、国語教育が映像にどのような役割を期待し、そしてそれはアトラクション性をもった映像で果たしうるのか、という話題から始められた。先述した通り、現在の教育現場で映像は、小説などの物語の理解を促すための副教材として使われる面が非常に強い。この観点も、一応は映像作品が氾濫状態としてある現代の様相を反映している。というのも、現代を生きる生徒にとっては、小説などの文章教材よりも映像を日々享受する機会が多いため、文章よりも映像の方が物語の理解が容易だろうという認識に基づいているからだ。一見すると道理が通っていそうなこの観点はしかし、『イメージの進行形』で話されていた、映像が「物語性」よりも「アトラクション性」に傾いているという見地を踏まえるならば一度再検討される必要があると分かだろう。現代を生きる生徒たちにとって映像作品とは、物語を享受するというより、体験や刺激を身体的に享受するものという認識が優勢である可能性があるからだ。
 ゆえに映像は文章を読むよりも容易に物語性が理解できるという認識は再検討されるべきだろうが、そうしたとき、映像は教育においてどのような役割を果たしうるのか。まず、「アトラクション性」が持つ共時的な感覚共有体験に注目することが考えられるだろう。一般的に、読書は個々の体験に帰せられる、固有性の強い体験と考えられている。たとえ同時に読書を開始したとしても、読むペースは一人一人異なっており、皆が同時に読み終わることはほぼない。つまり、同じ時間を共有できるものではない。また文章を読んで一人一人が浮かべるイメージも、決して同一のものが想起されることはない。そうした一人一人に固有の作品世界を開くのが読書体験のすばらしさだともいえよう。たいして映像作品は滔々とイメージが流れ、そのペースは作品に帰せられるため、生徒は同一の時間で視聴することとなる。そして視覚イメージも映像として提示されるため、そこで享受される表象も同一のものとなる(小説で描写される雲の形を人はそれぞれ別な形に想起するが、映像ではそのようなことは起こらない)。こうした、読書体験と比べた視聴体験の共時性、作品体験の一体性は注目されるべきであろう。良作の映画が上映された後の劇場の、興奮に満ちたざわめきを想像してもらいたい。あの、互いに見た感想を語りたくなってしまう、エネルギッシュな場。そういった空間を教室の中に生み出すことは、生徒同士が作品に対して抱いた考えを精力的に語り合い、主体的に学びに向かっていく態度を形成することにつながるのではないか。文章ではどうしても、個々の読書体験が固有であるために、互いの考えを語るには意見を客観化する手順が必要となる。だが、映像ではその「アトラクション性」ゆえ、直接的な刺激に根差した即時的な共有空間の創出が可能になる。それは生徒に「語りたい」と思わせる「衝動」を形成する場と言ってもよい。いままでは、教室空間における作品の鑑賞態度は厳正なもので、静かに行われるものだと常識的に考えられてきた。それは、(野放図な)ざわめきが授業運営に支障をきたす忌避されるべきものだからだ。だがしかし、映像の「アトラクション性」を考えるならば、ただ視聴時のざわめきを排除するのではなく、その有効性を鑑みたうえでコントロールを図り、授業に活用するという試みが検討されていくべきではないだろうか。

国語教育で求められる映像の特質②:固有性に着目する

 上述の検討のように、映像の「アトラクション性」の特質は、視聴体験における瞬間的な共有空間の創出、つまりその即時性と共同性にある。だが一方で、映像の視聴体験とはまた非常に、個々人固有のものとしてもある。どういうことか。ここには、ポストモダンにおける「大きな物語」の失効が関係している。
 哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、その著書『ポストモダンの条件』において、1970年以降、イデオロギーや伝統、思想といった社会共同体を下支えしていた「大きな物語」が失効していると論じた。社会のあり方に明確な形を与えていた「大きな物語」が機能しなくなることで社会は明瞭な形を失い、それに伴って、社会や共同体を想起する想像力そのものが弱まっていく。人々は共同体意識を失っていき、それまで多くの人々に共有されていた価値観、秩序が解体され、個々人が自ら価値観や秩序を定義づけていくようになる。つまり、共同体としての意識が失われ、人々がそれぞれ個別に自分の生の在り方を見出していく、これがポストモダン以降の状況である。
 そして、現代における映像の「アトラクション性」の勃興は、この時代精神を如実に反映している。「映像圏」が提供する、身体の刺激に根差した映像受容の在り方、映画の4DX上映や「TikTok」の「踊ってみた」、果てはアニメのコスプレイベントや聖地巡礼までに至る諸現象の特質とは何だろうか。それは「ライブ性」、一回性であり、個々人の体験に帰される固有性に他ならない。視覚情報が複製され、いつでもどこでも同じ映像が見られる「ソーシャル化」、その環境に順応した人々はゆえにこそ体験の一回性、固有性を欲望する。劇場で歌ったり、イベント会場で一体感を楽しんだりといった体験は、身体性に根差しているがゆえに決して複製しえないその時だけの固有なものだ。映像作品は複製可能でいつでもどこでも視聴できるからこそ、人々は体験を一回性、固有のものとして志向するのである。
 上述の例は固有性、一回性を強調した少々過度なものかもしれない。もう少し身近な例を考えるならば、今はやりのNetflixやAmazonプライムビデオ、そしてYouTubeやニコニコ動画など、映像の視聴方法が多様にあるからこそ、個々人のそれが非常に個別化しているという事例が挙げられる。現代では、家族が同じテレビを見ながら団欒する風景は珍しくなってきているとされている。各種動画サービスが世代や趣向に合わせて最適な動画を提供するので、家族は同じ屋根の下にいながら各々違った動画を視聴するというのが現代社会において主流になりつつある。そしてこのような動画配信サービスが限定配信という「一回性」「固有性」によって価値づけられていることも見逃してはならない。
 このように映像視聴には個別性・固有性・一回性という特質があるとして、それが国語教育にどのように関係するだろうか。考えたいのは、作品に対する生徒の応答が、今までほとんど「感想を書く」という形式に一本化されているということだ。だが、作品の鑑賞態度が固有化・個別化した現代において、その特質を生かして新たな応答方法を考えることは出来ないだろうか。
 補助線として考えたいのが、リンダ・ハッチオンが提唱する「アダプテーション」という考え方だ。「アダプテーション」は小説・戯曲などを改作、翻案することを意味する言葉である。ハッチオンはこの翻案という行為によって、一次作品にはなかった新たな特色が二次創作以降付与されていくこと、そしてまた二次創作の制作活動を通じて作り手が一次作品に新たな観点を見出し、一次作品に回帰的に新たな価値が付与されていく事態を好意的に論じている。
 感想を書く代わりに、このハッチオンの「アダプテーション」に基づいて、生徒がそれぞれ親しんでいる鑑賞方法を使った応答をすることは出来ないだろうか。例えばMAD動画を作ったりTikTokでワンシーンを翻案したりするというのは魅力的かもしれない(とはいえ、ハードルは高いだろうが)。他にも、いかにリツイートが得られるかを考えて、ツイッター風に作品の良さを短く書いてみたり、Instagram風に鑑賞した作品を象徴するような写真を撮ったりすることなどが考えられるだろう(また、作品の受容態度が個別化しているという事態に注目するなら、生徒によっては、小説や詩に置き換えるのが最適という場合もある)。
 こうした作品制作を行う授業の授業設計においては、いかに評価を行うかということが大きな問題としてあり、そこについてはこれからも検討を加えなければならない。ただ前回、第5回のゲストを招いた討論会において、土居伸彰氏が語られた、アニメーション鑑賞において「異なるロジック」を理解する、つまり、自分とは異なるコードの中で生きている人の在り方をどう理解していくのかが肝要である、との示唆がここで響いてくるように思われる。つまり、個々の生徒が思い思いのスタイルで二次創作を作り、それを互いに鑑賞しあってその良さを認めたり、批評したりすることで、彼らは互いのロジックを理解し、また個別化し凝り固まった受容態度に亀裂を入れ、「映像圏」への参画の仕方を考える契機にもなるのではないだろうか。

次回に向けて

 『イメージの進行形』によって示された「映像圏」における「アトラクション性」、それと国語教育の関係はいかにあるべきか、それは冒頭でも述べた通りまだ全く未開拓といってよく、これからの検討によって開かれるべきなのは間違いない。今回のREMでの検討も、そういったほぼレールのない状態で行われた故、机上の空論ともいえる、実際の教育現場での妥当性を少々犠牲にした可能性の検討になってしまっているのは否めない。次回以降、妥当性を補強し実現を視野に入れた授業形態のありようをさらに考えなければならないのは明白だ。このような反省を踏まえ、次回の研究会では実際に映像の「アトラクション性」を有効活用する授業はどのようにあるべきか、その提案と検討を行うことを計画している。前回までの「アニメーションと国語教育」でも、実際の模擬授業を行い、かつその分野を専門とするゲストと討論を行うことで、少しずつアニメーションを用いた教育の形を明確にしていった。映像の「アトラクション性」を活かした国語教育の検討も、そのように一歩ずつ前進していきたい。(樋口貴太)

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REM9月研究会のお知らせ

REM国語部会は、8月の研究会より「国語教育と21世紀の映像文化」をテーマとした研究会を行なっています。
これに伴い、8月の研究会では、上記イベントレポートにあるように、渡邊大輔『イメージの進行形:ソーシャル時代の映画と映像文化』の読書会を行いましたが、9月研究会では、その知見を生かし、実際に映像を用いた国語科授業指導案について検討します。

ご興味ある方は、ぜひご覧くださいませ。
以下、研究会の詳細です。

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2020年9月REM国語部会研究会

日時:2020年9月26日(土)13時〜16時※いつもとは曜日が異なりますので、ご注意ください

開催方法:オンライン開催(Zoom。参加者にはルームのURLをお送りいたします)

テーマ:映像を用いた国語授業について検討する

形式:オンラインディスカッション(最初に運営メンバーによる映像を用いた国語授業の指導案を発表し、それについてのディスカッションを行います)

参考文献:渡邊大輔『イメージの進行形:ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院、2012年、参考URL= http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b103747.html)

参加方法:こちらのフォームにご記入ください

参加期限:2020年9月25日(金)まで
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国語教育のみならず、広く映像文化にご関心がある方のご参加をお待ちしております。奮ってご参加くださいませ。

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