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『トラペジウム』感想−「東ゆう」の圧倒的正しさについて・或いは夢と「成る」ということについて

ネットの評判で主人公の「東ゆう」というキャラクターの性格が「最悪」「最低」「人の心がない」と散々の言われようで言及されること、一方でアイドルになりたい人間がグループを結成していくという群像劇ということもあってつい先日鑑賞をした。

結論から書くと、本作の主人公「東ゆう」は全くもって「性悪」な人間ではない。
個人的には全肯定で否定要素はない。寧ろあの性格こそが本質的な人間性をよく表していると思う。「夢」を持つ人間の異常性だと思うし、故にそういう人間になれるからだと思うからだ。だからアニメの主人公とはいえ、なぜここまで批判されるのかが全然分からない。それくらい自分は主人公の気持ちのテンションに傾倒してみていたし、性悪性でいうのであれば、周り3人及び主人公の同級生一向のほうが人間的に最悪で最低に近いとさえ思う。「アイドル」というものになりたい人間であればあれくらいの行動力と策略家な思考性をもって然るべきであるというのは先にも述べたが、そういう人間の異常性というのは他の3人だって気づかなかったという線はまずないだろう。そもそも他校を這いずり回ってメンバーをかき集める段階で「異常」であることは自明であり、それは「お互い変わったもの同士」という台詞からも読み解ける。

「東ゆう」という人間はアイドルになるという夢に異常に執着している。ソロで挑んでみたものの全てのオーディションに落選してしまう経験をした上で本編が始まるわけだが、この段階で一度「夢」に挫折していることが本作の面白いところであろう。普通にはアイドルになりたいという欲求をへて、それにチャレンジしていくという過程で描かれていくからだ。だからまず主人公が「なれなかった人間」から始まる本作だからこそ主人公の異常さというのに十分説明がつく。夢をもった人間は恐らく全世界の人間がそうであるし、敗れた人間も大多数いる。つまりそこにかかる悔しさ悲しさ、未熟さというものは大小の温度差はあれど誰もが「わかる」感覚だ。それを踏まえた上ですこしだけ『仮面ライダー555』の話を例にとってみる。
「夢」は呪いであると説いたのは『仮面ライダー555』の海堂編における木場であった。
(厳密には脚本家の井上敏樹さんだがまぁキャラが放ったセリフという意味で)


知ってるかな?夢っていうのは呪いと同じなんだ。
途中で夢を挫折した者はずっと呪われたまま、らしい。

『仮面ライダー555』第八話

つまり本作はアイドルになれなかった自分を一種の「呪い」がかかった状態とも捉えることができる。その呪いから解放されるためには「叶える」以外に方法はない。
(結局叶えてしまうのだが、「グループアイドル」でも上手くいかないという二回目の挫折が当作品では描かれている。)
だからこそ主人公はあらゆる手練手管を用いて東西南北(仮)というグループで叶えようする。そこに妥協は一切なく、「なった」状態の時を考えてそのために今の自分たちがなにを行えば後に利点となるか、といったところまで考えて行動する。なるほど、誠に人間的というよりも功利主義な考えである。

そのためにはボランティアの山登りもするし、有名観光のガイドでテレビに露出しようとする姿勢は何も間違ってはいない。後者に限っては英語を話せるという、日本人的に言えば誰しもができるわけではない能力を最大限に活かしているので、これも全くもって普通だ。他の人間に迷惑をかけているわけでもない。結果として全員が自分の意思が通っていること間違いはない。その着地点に導いた主人公の行動は寧ろ賞賛に値するし、恐らく誇っていたと思う。だからこそ、そこまでの行動力をもってしても1名が不参加という結果になってしまったことが、主人公からしてみれば「分からない」のであろう。この時点である種の亀裂の予兆は描かれているのだが、まぁそれはおいておく。

山登りにしたって「東西南北(仮)」としての存在をアピールしたいがために利用しようとして、実際には車椅子の方を補助するというイベントでもあったが故に組分けでバラバラになったものの、それはそれでメンバー同士の交流というものは取れたわけだし、ここにおいても誰かにとって都合の悪いことなんて全くない。

そんなこんなで、イベントに積極的にアピールをしていったからこそ番組の企画がADの功績もあって「アイドルプロデュース」というものに変わり晴れてアイドルという存在になっていく4人。イベントライブや公式SNSといったものをこなしてき、当人らからすれば「まるで芸能人」のような扱いをされていく。このパートで印象深いのは公式SNSにおいて、誰よりもアイドルに「成りたい」主人公だけがいわば「じゃない方」芸人と形容すべきか。つまりは不人気枠になっているということだ。ここも一考の余地がある。

日本のエンタメ三大巨頭を例にして考えてみよう。

アーティストに多いが、巨匠であればあるほど本来なりたいと強く願った「夢」からは少しだけ離れた路線に従事し、大成するというケースが多い。例えば手塚治虫御大。もともとはアニメを作りたい人間であったことはディズニーを信奉していたことからも明らかである。しかし今の時代、手塚治虫といえば戦後漫画の開祖という立ち位置からもわかるように「漫画家」で歴史に名を刻んだ人物である。アニメ作品も作ってはいたものの、ではそれがスタジオジブリの何かの一作と対比した時に並べる水準のものがあるかどうかといえばないですよね。手塚治虫の漫画であれば『ブラックジャック』『火の鳥』『鳥人大系』『W3』『どろろ』と枚挙に遑がないが、アニメ作品で現代に語り尽くされている作品はアニメのファンやマニア思考の人間以外には基本的には見られていないというのが「結果」である。

では反対に宮崎駿御大はどうかというと、これも元々は手塚治虫の『新宝島』に影響を受けた一人であり、そこからあらゆる人間がそうであったように漫画家を目指した方であった。それは秋津三郎名義で描いた『砂漠の民』といった作品を昔描いていたことからも分かる。が、結局これも今知られているかと言えば否。やはりマニア目線にならないと出てこないタイトルであり、基本的な知名度は「世界名作劇場」時代のスーパーアニメーター宮崎駿、あるいは世界の宮崎駿監督として数々の名作を送り出してきた名匠として知られている。

映画監督の黒澤明御大も実は絵画志望の人間であったことは、監督ファンであれば誰でも知っていることだ。しかし現実は映画監督という側面で大成した。つまりは『羅生門』『七人の侍』『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』『隠し砦の三悪人』といった作品を出して映画界隈屈指の名監督となったということだ。その知名度でパリコレに彼の絵画が展示されるといったイベントはあれど、それは「画家」としての黒澤ではなく「映画監督」黒澤明が描いた絵として飾られるのであって、純正画家の意味合いは薄い。

閑話休題

つまり「本当になりたい自分」、あるいは「〇〇になりたい」という願い・欲望が強いほど、その想い「成る」過程において一番阻害する要素になってくることは少なからずあるのではないかということだ。勿論世の中には目標があって、それを純粋に叶えた人もいるわけだが一方でこうしたタイプの人間がいることも確かである。話を戻すと『トラペジウム』の主人公・東ゆうもこのタイプだったのではないか。と思う。「アイドル」になりたいという想いで結果的に「成れた」までは良かったものの、ではその後の個体「アイドル」としてどうかという状況になった時に不人気な方という形になってしまい「アイドル」になろうとは思っていない他の3人の方が上手く立ち回ろうとか、ある種の邪道な考えや、深いことを考えずに自分らしさというものを発信しているからこそ、一般大衆からの指示を得られたのではないかと考えることができる。結果的にそれで一人は「彼氏バレ」というありがちで身も蓋もない展開を迎える。これは「自然」な振る舞いをしていたら、いつのまにかタブーを踏んでいたというマイナスな側面も描けていて大変面白かった。決して悪気はないというのもポイントが高いしああいった一種のスキャンダル的なものは現実世界で事例が相当あるので「ああ、やっぱり」と思った人も多いはずだ。

この自然な立ち振る舞いをする人間のほうが、「成りたい」人よりも注目を浴びやすいう点についてもう少し深堀をしてみたい。先の例はあまりにも偉大な方々なので、もう少しとっつきやすい例をとって、このシーンの意味を考えていくのであれば、それこそ「声優」という職業がイメージしやすいだろう。誰しもが推しの声優の略歴というのは一度はチェックしたことがあるはずだ。そこにこうした経緯を持つ声優はいなかったであろうか?

「声優になりたい友達の付き添いでオーディションに行ったら受かってその友達は落ちた」
「好きな女子が声優を目指していてそれにつられて興味を持ってオーディションで受かった」
「別の職種の試験願書を出すをの忘れ、色々探していたら声優の案内があって応募した」
「学生時代の音読の時間に教師から声について褒められ、結果的にそれが岐路となり声優へ」

敢えて名前は伏せるがこれらは人気声優にありがちな「声優への道」エピソードだ。どこにも最初から「声優」になりたいという動機は存在していない。まさに自然と成った人たちだ。そしてこれは一応に断じてしまうには規模の大きな話ではあるが、恐らく生き残っている声優ほど、最初から声優を志している人は少ないと思う。先述の「本来なりたい自分」にはなれなく、転じた世界で「成功」するのとどこか意味合いは共通しているように思える。

閑話休題
これらの話と『トラペジウム』のあのパートを接続すると、やはり主人公は想いが強すぎてなれない側の人間であるということがわかる。本作のキャッチコピーは

わたし1人では、アイドルになれないんだって。

というものだが、これまで述べてきたことを統合し本編と突き合わせをすると、意地悪な見解にはなるが「グループアイドルでも、人気アイドルには個人ではなれない」という事実に直面するのではないかと思う。仮に他のメンツがアイドルになるという人生を選んで「東西南北」として飛ぶ鳥を落とす勢いの存在になったとしても、東ゆうという個人のアイドルの人気というのはあまりでなくて、今度はそれに悩むことは、「アイドル」で人を幸せにすることを絶対の自負として語る主人公の意思のあり方からも明らかなように思える。


漫画家になったはいいが、それ自体がゴールになってしまったから人気漫画家にはなれないみたなもので、「成る」というのは所詮過程であり目指すものではないというのが、ある種成功した人間からみた風景なので、そもそも「ソロ」オーディションを落ちている段階で素質なしで諦めるのが一番手っ取り早いのだが。こういう見解はフィクションとしてある程度の許容を持つべきなので野暮ではあるが、実際問題なれないのに、無理になろうとした結果ダメだったというのが本作のオチであるのだからやっぱり諦めも肝心だよな、と思って見ていると、やっぱり他3人がやめてしまってたら本人も辞めてしまうという展開だったので、やっぱりそうだよなと。ここで「いいです。私一人でアイドルを続行します」というエゴを続投できるほどには「東ゆう」も強い人間ではなかったわけである。あの瞬間は。
諦めるならよそこで。どうしてそこで一回引いてしまうのだと鑑賞時にずっと思っていた。どんな犠牲を払おうとその上で成り立つアイドルを目指していたはずなのに。本来なら本編であのままアイドル続けて迂遠経路を経てラストに繋がっても良かったわけだが。

そのあと色々とあってアイドルになること自体には成功していますが。それは映画で描かれた内容の後の話で後日談として描かれるのであって、あの時代の限界はあそこであったと。

以上のことから、本作の主人公・東ゆうは性悪な人物でなければ、最悪の人間でもなく「夢」を追う人間の特性上全くもって正しい姿(だからこそ、普通の人間からすればいい意味でも悪い意味でも目立つ存在であるからこそ、そういう人にとってはマイナスなイメージを受けるのであろう)であり、本質的に人間は自分のための「何か」を達成できるのであれば、あそこまで自分中心に動けるものである。それは作芸のタイプは違うものの『デスノート』の夜神月が「新世界の神」になるためにはどんなことでもやってのけるのと同様、また『コードギアス-反逆のルルーシュ』におけるルルーシュがいかに卑劣な手口を使って周囲の人間を蹴落とそうと(色々な過程を経て意味のある裏切りとはいえ、最愛の妹までギアスに掛ける)する、その様と同種であると言える。この2作品は扱っている規模が神だの、皇帝だの、国への復讐といった単位が超越しているため、側から見れば人間として人格として終わっていることも作風としてまぁこれくらい狂ってなければ「新世界の神」にも「皇帝」にも成れないという感想を持つことができるが、『トラペジウム』の場合はそれを実際世界の「アイドル」になりたいという一般的な夢をもつ女学生の話として誰でも想像しやすい話の主人公としてそういったタイプの性格を描くからこそ「こいつアイドルを目指すのに、かなり性格がやばいぞ」と思えるだけの想像力が働くのであろう。それでいてなお、性悪ではないかというと、これはあくまでも印象論でしかないが、よく、クリーンな芸能人が何かのアクションをしてしまったことでよく「こんな性格な人間だとは思いませんでした、失望しました」と、ファンが偶像に対して裏切られるという例があるからだ。何かに特化したものは基本的に人格なんて無に等しいと思った方が応援しやすいという形を感じたことはあると思うが、それをこの作品は最初から「そういう人格者」であることを推し進めているのだから最初から非難轟轟というの宜なるかなと考えることもできるがそれはあまりにも、単一的な視点でしかないと自分は思う。

極論をいえば、このくらいの根性を持ってるやつに嫌悪感を抱くというには将来あるいは学校のイベントでも部活動でもなんでもなんでもいいが、本気でそう言った物に対して身を捧げたことのない人なのではないか。ということだ。

逆に何かに夢中になった人(あるいは進行形でなっている人)ほど「東ゆう」に入れ込むことができるのではないかということだ。

本編的にもこの辺りぐらいで東ゆうの描写は落ち着くので、ここからは一旦本編に対する不満を述べていきたい。

基本的には物語として東ゆうという人間の面白さも相まって楽しめたが、ここからの展開が個人的にはマイナス要素となった。

解散したあと4人はそれぞれ人生の選択で色々と迷っているところ、一回きりの歌ものがCDとなって収録されることがわかり、いつもの場所で全員が再開するシーンがある。このシーンは正直見ていてどうかなと思うところがあった。
主人公が中学生時代の同級生にどういう人間だったかを聞くというパートは、今も昔も東ゆうという人間は変わらないという説明になるので、視聴者もなっとくできるところではあるのだが、それ以降の、展開がどうも腑に落ちない。

区切りをつけてそれぞれの道を選んだはずなのに、それでいて過去の栄光となった「瞬間」をああやって楽しんで慰め合うだけのシーンが絶対必要だったかといえばそうでもないと自分は思う。全員がCDを買って過去にふけるのであれば、それぞれの将来に向き合う姿勢のシーンでもみせてそこに同期するように音楽を流せばいいだけの話であって、わざわざあそこで集まる必要性はない。だっても解散した関係性なのだから、バラバラのままでいい。アイドル時代にメンバー全員による作詞という「宿題」を「今となっては」という段階で全員が書き切るというのはありがちなではあるが、これも見せ方が直接的すぎるがゆえに、通常のアイドルものアニメという枠組みとは違う目線で見ていたのに、急にスクールアイドルみたいな展開が始まったなと思ったため、やはり個人的にはあれは興醒めに近い。

それを後押しするかのように数年後が描かれてまた再集合するシーンがあるから同じ展開を時系列が変わっただけで見せてくるのってあまりにも観客に説明的すぎないかと思った。あそこでは、「頑張った証としての歌ものを聞く」ではなく、ある種の同窓会的なノリで全員が一同を介して写真展に行き各々が高校生時代の学園祭で撮った「十年後の私」みたいな写真を見返してそれぞれが想いにふけるというより直接的な過去の栄光に想いを寄せるという展開だ。別に過去の栄光に浸るのはいいのだが、わざわざ全員が集まる必要性もなくて、主人公がたまたま寄った写真展にあの写真があって、今の自分を肯定するみたいなものでもいいし、画にはださなくとも、どこかで他3人もあの写真をみて想いに耽るとかでも良かったのではないかと思う。なんにせよ同じようなシーンを2回やるなら、せめてどっちは削って欲しいなと鑑賞する側として思いました。一応形式上は関係性そのものをメチャクチャにして(だからこそ、終盤の「でもよかったね」というパートは必要度はそこまで高くない描写)終わらせているわけだし。まぁ、そこは穏便にしめるほうがお話としてはいい話なのかもしれないが。そこはフィクションの味付けでとりあえず色々あったけど仲良くしてますみたいなそういう感じなのだろう。
そういうのはこの作品かなぐり捨てるという、「異常な切り口」から始まって「異常な結末」で終わった方が作品性は高くなったと思えるだけに残念。
これがあるから東ゆうは角が取れたキャラクターになってしまったのが残念。

できるなら最後まで一貫した東ゆうでい続けて欲しかった。

そろそろ『トラペジウム』の感想も締めに入ろうかと思うが最後に今回のキャラで誰が一番得をしたのか、という話をしたい。それは紛れもなく写真家の彼である。幽霊部員である一方、自分が好きなことを押し通して、しっかりとかなえた人物である。そんな人物と夢そのものは違うものの、アイドルになりたい主人公と邂逅し、最初こそ繋ぎの役割でしかなかったものの、ある種の相談相手となったからこそ、東ゆうも踏み込んだ質問に対して「笑わない」ことを条件としてまっとうに答え、それに対していしっかりと受け止める。写真を渡す、渡さないのくだりであっても主人公の動機を卑劣といった形で非難することもついぞなかった。目指すものは違えどあの二人には通底するものがあり、なんなら写真家の彼の方がそれを押し通す力は強かったということが最後の写真展で明かされる構造をみると『トラペジウム』は「夢」を叶えられる人間同士の微妙な邂逅と同調というのも意図して描いたのではないかと思う。描写されていなから何とも言えないが、カメラマンの方は大した挫折なさそう。その意味ではソロでもダメで、グループでもダメという2敗をしたあとにようやくなりえた主人公というのはやはり図太い神経とあの行動力があったからこそであろう。

映画しか鑑賞しておらず原作は未読なので、その点はどこまで正しいかは分からないが、映像を見る限りはあの男女二人の「理解者」としての関係性は非常に見ていて面白いものがあった。

以上が『トラペジウム』を鑑賞した自分なりの感想である。本来は記録として鑑賞中にをしていた殴り書きのメモでしかなかったのだが、作品性を考えるにつれおもっていたほど文章が書けると思い、イレギュラーながら投稿した次第です。

既にSNS等で散々語り尽くされているため、今更な面はありますが、今後の誰かの鑑賞のきっかけや考察の参考、視野の拡大などの参考になればと幸いです。

解釈ミス・内容咀嚼ミスについては見つけ次第適宜修正します。






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