岸惠子(15)メロドラマへの回帰 『わりなき恋』
少女時代の岸惠子の夢は、バレリーナになること、俳優になること、小説家になることだった。女優になる前は、六年間クラシックバレエを習っていた。川端康成の「花のワルツ」の世界に憧れたからだった。いとこと川端を訪ねたこともあった。
少女時代には、ケッセル、マルタン・デュ・ガール、ドストエフスキーなどの長編を読んでいた。小田実の『現代史』には前に触れたが、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』やアゴタ・クリストフの『悪童日記』などは、彼女に衝撃を与えた重要な小説である。
その彼女が書き下ろし長編小説『風が見ていた』上下を刊行したのは二〇〇三年のことだ。彼女は現実の世界から、ふたたび虚構の世界へと帰って来た。ただし、それは映像ではなく活字の世界だった。
一九九九年一月、国連人口基金親善大使の仕事で母の死に目に会えなかった後悔が、岸に転機を促したのだった。もういい、自分に似合わない役を演じるのはやめよう、彼女はそう思ったのだとわたしは思う。
母の死と、娘の結婚が続いたことから、岸は生活の拠点をパリから横浜に移した。そして同年一一月に書き下ろしで上梓したのがエッセイ集『30年の物語』である。一つ一つのエッセイは、いずれもフランスでの生活を回想する内容だが、二〇世紀後半のフランスに生きた一人の日本人女性の人生が、透徹した眼差しと抜群の描写力で、さながら短篇小説のように描かれている。それまでの著作にあった自己滑稽化の諧謔は姿を消し、優れた文学作品が持つ香気を放っている。
パリ五月事件とチェコ事件が起きた一九六八年を描いた「栗毛色の髪の青年」は、この本の中の一篇である。一九六八年の記憶の断片が、想起の力学によって三〇年後の現在に再配置され、チェコの若者の人生、クンデラの人生、そして岸の人生が、ひとつの物語のなかに生き生きとよみがえっている。『巴里の空はあかね雲』とも『砂の界へ』とも違う、生まれ変わった岸惠子がここにはいる。人間としての円熟があるとわたしは思う。
このエッセイ集は、本格的な創作に向かうための、いわば踊り場だった。岸は二年後の二〇〇一年から長編小説『風が見ていた』を断続的に発表し始める。明治時代に新開地横浜に出てきた一人の男の孫娘衣子の物語である。
横浜に生まれ、女優になり、フランスに渡る主人公衣子の人間像と人生行路には、作者自身の投影が色濃い。だが、冴子という双子のような女性を配するなど、虚構性が高く、いわゆる私小説的な作品ではない。全体の構成力や、端正な日本語で書かれた映像喚起力を持つ細部の描写などに見るべきものがある。
初めて書いた小説が上下二巻の長編小説だったのは、少女時代に親しんだ『幸福の後にくるもの』や『チボー家の人々』が彼女の文学の理想像だったからかもしれない。何冊かの著書をすでに持っていたとはいえ、小説は書いたことがなかった。重量感のある本格的な小説を書くことで作家として認められようという強い覚悟があったことは間違いあるまい。自分は小田実ではない。ミラン・クンデラでもアゴタ・クリストフでもない。自分は岸惠子であるしかない。『風が見ていた』は、そのような自覚から書かれた作品だった。『風が見ていた』を二〇〇三年に上梓したとき、大きな達成感を彼女が持ったことは想像に難くない。
しかし、これで終わりではなかった。一〇年以上の沈黙のあと、二〇一四年に、メロドラマ仕立ての娯楽性を持った長編小説『わりなき恋』を書き下ろしで上梓したのである。かつて映画でメロドラマを演じた岸惠子は、小説世界のなかでふたたびメロドラマを演じている。もっとも、主人公は知性的で行動力に富んでいる。『君の名は』の真知子は、岸の小説世界には存在しない。
『わりなき恋』の主人公は、古希を間近に控えた女性ドキュメンタリー作家である。作者の見果てぬ理想像なのだろう。前作『風が見ていた』と比較すると、主人公と作者との距離は著しく接近しているようだ。一二歳年下の大企業副社長との恋愛物語。老いて枯れていくことへの拒否、『パリのおばあさんの物語』とは対照的な世界がここにはある。
もっとも共通していることもある。パリのおばあさんがユダヤ人女性であったように、実生活でユダヤ人女性から夫を奪われた岸が、この小説では、主人公にそのユダヤ人女性の役割を与えていることだ。恋愛相手を離婚させて妻になるわけではないが、妻子ある男の隠れた恋人になるのである。相手の家族について、ヒロインはほとんど何らの関心も払わない。恋愛に夢中になって我を忘れている。五年間の恋愛のあと、自分から別れを告げることで、ようやく彼女は恋人を彼の家族のもとへと送り返すのである。
岸は自分の中にひとりのユダヤ人を見ているのではないだろうか。それはさまよう者であり、差別される者である。そしてシオニズム国家イスラエル建国の後は、奪う者でもある。芸能界という「ゲットー」で生きてきた岸は、人生のなかで「血の滲むような屈辱」を幾度も経験したという。具体的なことはわからない。しかしシャミッソーの「ペーター・シュレミールの不思議な物語」に一方ならぬ魅力を感じている彼女は、ユダヤ人という「影」が自らに付き従っていることを、半ば無意識のうちに気づいているのかもしれない。(続く)
*次回は最終回「横浜 ミモザの繁る家」
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