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岸惠子(最終回)横浜 ミモザの繁る家

横浜の私鉄沿線。坂道を一人の老人がのぼっていく。一二歳年上の恋人に出逢ったときに五八歳だった男は七五歳、別れたときの恋人の年齢になっている。

《坂をのぼりつめたところにある、おおきな角地のブロックに男が愛した、純日本式の家ももうなかった。歩調をゆるめた男は、東に面した道から、角を曲がって、かつて裏庭のあった道に回った。
 そこにはっとするほどおおきな房をつけたミモザの木があった。まだ冷たい春風のなかに、黄色いミモザの花盛りがあった。 》(『わりなき恋』)


主人公の女はすでにこの地上にいない。そして、男も、ミモザの花も、夕暮れのなかに消えていく。『わりなき恋』はここで終わる。

横浜白楽にある自邸の書斎でこの場面を書いたとき、岸惠子は文学的想像のなかで、自分が地上を去ったあとの世界を描いたのだった。ミモザはパリの春を告げる花である。「パリの春は、ミモザで黄色く染まり、やがて,空の青が少しずつ拡がるとマロニエの花が満開になる」と岸は記したことがある。

強い印象を残すこのラストシーンは、この世のものたちへの優しい別れの挨拶である。愛しいこの世界。パリの空、横浜の夜景、そして父母と暮らしたこの古い家の匂いと、静かな庭の佇まい。空襲を逃れた切り子のグラス。自分が愛した人々、自分を愛してくれた人々。わたしは全てを置いて去って行く。この肉体も地上に置いていく。わたしをどうぞ忘れないで……。

岸惠子は知性と行動を愛したリアリズムの人である。感傷を排した散文世界に生きてきた彼女は、ここではじめて、甘美な、何か詩のようなものを、われわれに差し出している。

パリ、映画、女優といった記号が、絢爛たる光輝でわれわれを幻惑した時代はすでに過去になった。パリへの憧れを、銀幕の女優への憧れを、今は懐かしむ時代にわれわれは生きている。世界がフラットになり、パリ、テヘラン、あるいはガザの現在が、日本の今此処とSNSで繋がる今日、「岸惠子」を幾重にも取り巻いていた幻影のオーラは雲散霧消して、ひとりの人間の、あるがままの立ち姿が現れている。

岸惠子は俳優を職業にしたが、自分の人生そのものを「お芝居」にはしなかった。彼女は「血の滲むような屈辱」をスクリーンの外で噛みしめながら、垂直の姿勢を保ちつつ、自分の運命を生き切ろうとした。渾身の力を振り絞り、行き着くところまで行こうとした。いわば、自分の人生そのものを「作品化」したのだ。彼女の栄光はそこにあるとわたしは思う。(終)


参照文献
岸惠子/吉永小百合『歩いて行く二人』世界文化社、2014年
岸惠子監修『女優岸惠子』キネマ旬報社、2014年
岸惠子『わりなき恋』幻冬舎、2013年
岸惠子訳『パリのおばあさんの物語』スージー・モルゲンステルヌ著、千倉書房、2008年
岸惠子『私のパリ私のフランス』講談社、2005年
岸惠子『風が見ていた』上下、新潮社、2003年
岸惠子『30年の物語』講談社、1999年
岸惠子『ベラルーシの林檎』朝日新聞社1993年
岸惠子『砂の界へ』文藝春秋、1986年
岸惠子『巴里の空はあかね雲』新潮社、1982
岸惠子/秦早穂子『パリ・東京井戸端会議』読売新聞社、1973年
秦早穂子『影の部分 = La Part de l’Ombre』リトルモア、2012年
秦早穂子『東京パリ闘い通り』大和書房、1981年
秦早穂子『巴里と女の物語』PHP研究所、1981年
秦早穂子『パリの風のなかで』 講談社、1979年
瀬戸内寂聴/ドナルド・キーン/鶴見俊輔『同時代を生きて』岩波書店、2004年
金子光晴『金子光晴下駄ばき対談』現代書館、1995年
山口淑子『誰も書かなかったアラブ:ゲリラの民の詩と真実』サンケイ新聞社出版局、1974年
辻邦生『海そして変容 パリの手記Ⅰ』河出書房新社、1973年
小田実『小田実全仕事』4 河出書房新社、1971年
加藤周一『羊の歌:わが回想』岩波新書、1968年
加藤周一『続羊の歌:わが回想』岩波新書、1968年

*追記
『ゆうゆう』(主婦の友社)2019年4月号のインタビュー記事において、離婚後に日本への帰国を考えた際、娘の日本国籍が取れなかったと岸は語っている。(2019年4月29日)

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