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岸惠子(6)1968、パリとプラハ

現在から半世紀前の一九六八年五月は、パリ五月事件とチェコ事件という二つの歴史的記憶と結びついている。パリに住む岸の人生にとって、これらの出来事は、くりかえし思い出し、くりかえし思索を重ねる重要なものとなった。しかし、渦中にあるときには、それに気がつくことができなかった。

その頃のパリにいて、五月事件について何らかの文章を残している日本人は多い。森有正、辻邦生、村松剛、饗庭孝男、西川長夫、鈴木道彦といった人々である。チェコ事件については、加藤周一の鋭い分析が名高い。しかし、岸が書き記した「1968」は、それらの人々の記録や分析とは全く異なるものである。

当時すでに四〇代半ばになっていた岸は、自分が体験した「1968」の、世界史的な意味ではなく、自分の人生における「意味」について、三〇年近く経ってから、ようやく納得のいく形で文章にすることができた。それが『30年の物語』(一九九九年)に収録された珠玉のエッセイ「栗毛色の髪の青年」である。栗毛色は、シャタンと読む。

一九六八年五月、シャンピはプラハで映画のロケをしていた。偶然のことながら、ドプチェク政権を待望する学生たちを予測する脚本を書いていたのである。医師である彼は、重病の妻の様態を訊くという表向きの理由をつけて、容易には繋がらなかった国際電話をパリの岸に掛けてきた。

《「ヴァンセスラス広場で学生たちがわれらに自由を! と叫びながら赤旗を燃やしている」と夫。
 「あら、パリではやっぱりわれらに自由を! と言ってるけど赤旗を掲げているわ」
 「当然さ」》(『30年の物語』以下同)


「政治オンチ」と自分でも記しているが、このとき岸は、事態を何も理解していなかったのである。「自分の眼で見て感じることを感じればいい」と言い、シャンピは岸にチェコに来るように言った。「見たものは必ず、頭か体のどこかに残るものだ」。

そしてプラハの街角で、岸は二人の青年から声をかけられたのだった。栗毛色の髪と、金髪の若者は、医学生だった。公定価格の五倍でドルを売ってくれという彼らは、またすぐに旅行もできるようになるでしょうに、と笑う岸に、固い表情で「ソ連が黙って見ていると思いますか?」と言った。彼らの切迫感は、しかしまだ岸には切実なものとして感じられていなかった。彼女は、骨董屋に並ぶ美しいクリスタルカップやブルーグレーの花瓶を、五倍の額面になったお金で「買いあさった」。

青年たちと、チェコ人映画スタッフの夫婦二人の、併せて四人の亡命中継地として、シャンピが一夏、田舎の家を提供することになった。二ヶ月が過ぎるうちに、最初は英語とフランス語だった会話が、チェコ語ばかりが飛び交うようになり、彼らとの共同生活に、岸は次第に疲れてきた。

ある晩、苛立ちが募り、一人きりになろうと車に乗り込んだときに、栗毛色の青年が気にして乗り込んできた。岸が怒りを爆発させたあと、「思いっきり一人きりになってください。ぼくもそばで一人っきりになりますから」という青年とともに、岸は黒いソーヌ川までドライブをする。シャタン(栗毛色)はサタン(悪魔)かもしれないというやりとり。二人の間柄は、このような機会を通して深まっていった。 

それにしても、なぜ彼らはこの家を中継場所として選んだのだろうか。シャンピが裕福で寛大だからか。そうした疑念が次第に岸の胸中に湧いた。

《それを言葉にしたらすべてがガタガタと醜く崩れ去る。私は黙っていた。けれど人の痛みにはいっこうに無頓着で、ふてぶてしくもあるこの青年は、反面、驚くほどの洞察力とデリカシーを持っているのだった。〔原文改行〕それは並の若者にはない人生の熟練者のような鋭さで、難局打開にはきっと役立つ長所となるにちがいないと私は常々思っていた。》


納得のいく回答を青年がしたので、岸は自らを恥じた。そして次のように思う。

《ああヨーロッパの人たち……と深々とした思いにもかられた。命がけで国教を越える人たち、その人たちを呑みこむように動いてくる国境。その中で大昔から攻めつ攻められつしながら弱者たちの中に築き上げられてきた危機察知と回避への知恵と策謀。屈辱に耐えるしたたかなユーモアと自嘲。いざという時の眼を瞠るような底力。夫と青年の間で、私は沖縄を除いては異国人に国土を侵され蹂躙されたことのない稀有なる国、日本に生まれ育った自分のあっけない素朴さと、ピュアなまでの脆さを感じた。》


金髪の青年の方は、マルチニック島出身で、読み書きもできないパリのシャンピ家の黒人女性ベビーシッターと恋に落ちて、一緒に亡命先のアメリカ合衆国へと去って行った。「金髪碧眼の美青年と、私は二十歳のときにロケ先の香港で作ったチャイニーズ・ドレスでチョコレート色の肌を包んだオランプの二人は、さながら近未来の地球人カップルを象徴するように颯爽としていた」。

やがて栗毛色の青年もパリを去る日が来た。日没のセーヌ川を見下ろす橋の上で、二人は口づけを交わした。「ふつうは頬にする別れのキスを、少し地域移動させてもいいでしょう?」と青年はいい、「寒さに凍えた細い手が私の頬を挟み、ふっくらと冷たい唇が私の唇の上におちた」。

月日が経ち、岸はシャンピと離婚し、新しいアパートに転居した。ある日、差出人の書いていない小包が届いた。中を開けると、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』が出てきた。手紙は添えられていなかった。岸はそれがあの栗毛色の髪の青年からのものだとわかった。……

梗概のみを記したが、岸の文章には味わうべき細部の豊かさがある。時がもたらす現実の重層性とともに、登場する人々の生の厚みを、岸は圧倒的な筆力で描き出している。

パリ五月事件とチェコ事件について、日本人が書いた文章は少なくないが、歴史の当事者として、ひとりの日本人女性が自身の人生を描くことを通してこのように書き残したことに感銘を受けずいはいられない。(続く)

*次回は「イヴ・シャンピの死」 

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