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岸惠子(9)殉教者墓地にて イラン

岸惠子がイランに赴いたのは、一九八四年四月のことである。同年二月に、フランスに亡命していたイランの元将軍オヴェッシイがパリで暗殺された。それは岸が家族のように親しくしている友人が住むアパルトマン前の路上であり、殺害があった日に岸は彼女を訪ねるはずだった。長電話をしたことでその日に行かなかったのだが、もしも行っていたら自分も巻き込まれたかもしれなかった。元将軍は、シャーの支配に抗議する反政府デモ隊に機銃掃射をして、数千人の市民を殺害していた。

岸はそれまで、ペルシャ帝国の末裔であるこの国について、特段の関心を持っていたわけではなかった。「何よりもイスラム教というものに我武者羅な拒絶意識があった」。それが、友人宅前の暗殺事件をきっかけとしてにわかに興味が湧き起こり、イランに行くことにしたのである。「無関心ではいられなかった」のだ。一九八〇年からすでにイランはイラクとの間に戦火を交えていたが、一度フランスに戻ったあと、岸は一一月にイランを再訪して、一ヶ月間の取材をし、翌年の『文藝春秋』に「岸惠子 イランをゆく」と題した記事を二回に分けて寄稿している。

この行動力はどこから来ているのだろうか。私が見るところでは、一九六八年にチェコにいながら、自分が世界史的出来事に立ち会っていることに気がつかなかった経験の反省があったからである。それ以前に、ハンガリー事件もあった。このときには、ハンガリーとは一体どこにあるのかさえわからなかった。以前の繰り返しはするまいという思いがあったのではないだろうか。シャンピはすでに二年前に亡くなっていて助言を仰げる人はいない。岸は自分が運命から試されていると思ったのではないかとわたしは思う。

イランに入国するまでの二ヶ月間、岸はイランについて入念な下調べをしようとは敢えてしなかった。知らない国へは知らないままで行こうと考えたからである。未知の国、未知の文化圏に行く前に、事前調査を行うことは、特にそれが政情不安定な地域であればあるだけ、危険回避のためにも必要なことだろう。しかし、岸はそうしなかった。

おそらくその訳は、一つには「自分の眼で見て感じることを感じればいい」というチェコ事件の際のシャンピの教えであり、もう一つは、小田実の「何でも見てやろう」の精神を遅ればせながら実践する機会だと考えたからではなかろうか。イラン取材を収録した『砂の界へ』(文藝春秋、一九八六年)は、いわば岸惠子版『何でも見てやろう』なのである。この年、岸はテレビ局の取材でナイル川沿岸も娘とともに取材している。こちらも秋から翌年にかけて、『文藝春秋』に「岸惠子 アフリカをゆく」と題して取材記を連載した。

イラン訪問記とナイル河紀行を収録した単行本『砂の界(くに)へ』は、岸が格別の愛着を持つ書物である。『巴里の空はあかね雲』(一九七五年)から一〇年、岸はそれまでの映画の世界から抜け出して、ジャーナリズムの世界へと一歩踏み出したのである。

当時のイラン国内のようすを知ることができるという意味で、啓発されるところがない本ではない。しかし、イランやスーダンについて、目が覚めるような洞察を読者が得ることはないだろう。後に触れるが、イスラエルに関する取材についてもこれは同様である。山口淑子が、パレスチナを満州と重ね合わせることで、イスラエルと帝国日本を重ね合わせたような鋭い洞察は、岸には求めることができない(山口淑子『誰も書かなかったアラブ』参照)。

デヴィッド・リーン監督は、映画「戦場に架ける橋」に岸が出演しないことから脚本を変えた。岸でなければ演じられない役柄だったからである。しかし、イラン取材は、岸でなければできない仕事ではないのだ。実際のところ、『砂の界へ』出版後、この本を読まずに批判する大学教授の文章が新聞に出たし、中東問題の専門家を紹介することができたのに、どうして事前に相談してくれなかったのかと知人から言われたりもした。顕彰もされなかった。

自分にしかできない仕事ではないことは、岸自身が充分に理解していた。女優岸惠子は、フランス大統領の晩餐会といった、歴史的現実における演劇的世界でも、いわば与えられた役を演じてきたのだった。しかし、この時期の彼女は、そのような飾り立てた自分ではなく、ひとりの人間として世界の現実に身を置き、自分の目と耳で向き合おうとしていたのだ。とはいえ、岸惠子が取材するからイラン訪問もナイル河紀行も話題性を持つ記事になる。ここには女優という職業で生きざるを得ない人間が活動を拡げようとするときに直面するジレンマが潜んでいる。

イラン訪問記で最も強い印象を与えるのは、戦場で手や脚を失ったり、顔にひきつれが残った少年たちがいることに市場で気づき、商店街の通りで殉教した少年たちの祭壇を見た岸が、ある女性を訪問したときの記録である。

この女性は当時四五歳の日本人で、二五年前に貿易の仕事で来日したイラン人男性と結婚してムスリムになった人である。夫はシャーの抵抗勢力に資金援助した商人だった。大学入学試験に合格した一九歳の息子は、一年前に志願兵としてイラクとの戦争に参加して戦死したのだった。自宅を訪ねると、黒いチャドルを被ったその女性が岸らを迎えた。レインコートを脱ごうとした岸は同行者に目で制された。部屋の壁一面に、亡くなった息子の写真があった。

《赤ちゃんのときから、幼児、少年期の写真、あどけない写真群の中の一枚の前で、私は脚がすくんでしまった。〔原文改行〕うすく開かれた唇、二度と見開かれることのない双つの眼。そして、あまりにも若いその顔は弾丸によって炸裂しているのである。カラー写真であった。》(『砂の界へ』以下同)


すぐに目を逸らした。「尼僧のように静かなたたずまい」で出迎えた彼女に、岸は圧倒されていた。紅茶が出された。岸はこの女性に言うべき言葉が見つからなかった。家事をするときにもチャドルを着ているのか。不自由ではないのかと、愚かな質問と思いながら言った。それから、家の中だし自分はムスリムではないのでスカーフを外していいかと問うた。その女性は、主人がもうすぐ外出するので、そうしたらコートもスカーフもお取り下さいといった。夫が出かけ、スカーフを取ったあとも、岸は言葉が出てこなかった。何かお話しすることはないのかと同行者から問われ、岸は年齢を訊ねた。

こころのなかでは、何故あのような写真を壁に掛けているのか、なぜチャドルなどを被っているのか、なぜコーランの教えに忠実になれるのかといった問いかけが押し寄せていた。しかしそれを口にすることはできなかった。
 辞去するときに、岸は思い切って、「ここにお写真があるのですから、息子さんのご遺体とは対面なさったわけですね」と言った。

《私が全部を言わないうちに邦子さんの澄んだ両眼がうるんで来て、涙はかろうじて震え出した静謐そのものの表情の奥に押しとどめられているようだった。
 「手が……」と言って邦子さんは、それまでどんな時にもチャドルの両端を隠す為に冴えることにしか使われなかった白い両手を私の前に差し出された。チャドルの両端がはらりと床の上に落ち、出された両手が顫え出した。「手が凍えるように固くなって、体モチカチに強ばってまいりまして……」
 私は声が出せずにじっと黙っていた。
「歩けませんでした。手も体も動かすことが出来なくなりまして、息子を抱きとることも出来ませんでした。何も出来ませんでした」》


岸は彼女を正視することができなかった。この女性――山村邦子は、芦屋市出身で、一九五九年に両親の反対を押し切り日本で結婚、一九六一年に夫とともにテヘランに赴いたのだった。イラン革命前には、長女とともに反政府デモに参加し、火炎瓶も作った。捕らえられる可能性がつねにあった。岸が訪問したときに戦死していたのは次男だった。彼女はイランの歴史に命がけで参加していたのである(『中國新聞』二〇一二年八月一〇日参照)。このような人には、時間をかけた周到な下調べと、正面から向き合う心構えなしに面会するべきでなかった。だが、それは三〇年以上経った現在の立場からする見方なのだろう。「思いがけない方にお逢い出来て、うれしゅうございました」と言われ、岸は「喉がつまって痛くなった」。そして、お邪魔をいたしましたとだけいって辞去したのだった。

翌日、岸はテヘラン南部の殉教者共同墓地を訪れた。真新しい墓穴に花に埋もれた若い殉教者が横たわり、父親らしき男が昂奮して遺体にしがみつき、震える両手で自分の顔や体に土をかけていた。凄まじい光景だった。そのときに、サイレンを鳴らしたランドクルーザーが急停止し、中から武装した男たちが下りてきて岸らを取り囲んだ。外国人の女が写真を撮っているという通報があったのだ。事実、岸は隠れて写真を撮影していたのである。

同行していた毎日新聞社テヘラン特派員の鳥越俊太郎らが取りなしてくれたおかげで、何とか事なきを得たのだった。ここは外国人である自分が来るべき場所ではない。「私は恥ずかしい思いがした」と岸は記している。職業的なジャーナリストであれば、こうした軽はずみな自身の行動の記述は控えるのが普通であろう。無為よりは無謀の方がいい、という岸の言葉には一面の真実がある。しかし、この時期の岸には何ともいえない危うさがあった。

『砂の界へ』のなかで一貫しているのは、イスラム教への違和感である。岸は「イランに来たことで、解らないということが、さらによく解った、ということではないだろうか」と記しているが、二〇一三年に行われた対談のなかでも次のように語っている。

《私は本を書くために、イラン・イラク戦争の真っ最中に、単身イランへ二回行ったんですね。二回行って空襲の下をくぐって、革命防衛隊に手錠をかけられそうになったり、さんざんな思いをして、結局わかったのは、「私にはわからない」ということだったわ。絶対にわからない。》(『歩いてい行く二人』)


ここで革命防衛隊というのは、ランドクルーザーに乗った武装兵士のことである。イランという国に興味がなく、「何よりもイスラム教というものに我武者羅な拒絶意識があった」ときから、岸惠子は何も変わっていない。異文化を理解することの絶望的な困難の証言として、この事実はある重さを持ってわれわれに迫ってくるように思われる。

評論家の佐高信は、一九九四年以後、雑誌の対談やテレビ出演などで岸と何度も面談している人だが、細川内閣で内閣総理大臣特別補佐を務めたこともある衆議院議員田中秀征に、岸を外務大臣に推薦したと自ら語っている(「ダイヤモンドオンライン」二〇一六年五月九日)。岸が外務大臣の適格者とは思えないし、何よりも岸本人がそうした生き方を受け入れると佐高が考えていたことにわたしは驚くのである。(続く)

*次回は「美なんてどこにある! スーダン」

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