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岸惠子(2)メロドラマ女優

岸惠子。本名同じ。一九三二年、横浜市生まれ。父親は神奈川県庁勤務。一人っ子。映画が偉大だった時代の銀幕のスター。そして大流行となった映画『君の名は』の真知子巻き。しかしそれも、現在の若い人々は知ることがないのかもしれない。

少女時代は太平洋戦争の最中だったので、米軍の機銃掃射を受けたこともある。もっともこれは、当時の少年少女には必ずしも珍しい体験ではない。一九四五年五月の横浜大空襲。大人の指示で防空壕に入った子どもたちは死んだが、松の木に登って自宅が燃え上がるのを眺めた少女は生き延びた。その日に「今日で子供をやめた」という。何でもはいはいと大人のいうことを聞くのはやめたということである。

進駐軍のカマボコ官舎が建ち並ぶ時代、たまたま出会った黒人兵士たちに抱き上げられ、ボールのように投げて遊ばれる。咄嗟に兵士の腕を歯で噛み、怯んだ隙にそばの大人用自転車に飛び乗って脱兎のごとく逃げ出した。横浜第一高等女学校(現神奈川県立平沼高等学校)在学中に観たジャン・コクトー『美女と野獣』に魅せられて映画に強い関心を持ち、松竹大船撮影所に見学に通ったことから、映画女優としてデビュー。下積みを経験せずにいきなりスターになった。

これらの話は、ある年代以上の人々にはよく知られているだろう。だが、映画評論家ではないわたしには、「巨匠」たちに愛された女優岸惠子について語る資格はない。

これまでわたしは、遠藤周作や須賀敦子を研究する必要上、一九五〇年代パリについて調べており、その副産物として、物理学者湯浅年子、フランス文学者加藤美雄、片岡美智の知られざる友情を論文にまとめたりしてきた。岸惠子は、留学ではなく結婚という形で五〇年代のパリに暮らすことになったところがわたしの興味をそそったのである。ところが、彼女について本格的に論評した文章が見当たらない。岸は雑誌やテレビで華やかに取りあげられてきた印象が強いが、実際には評論家たちから無視され続けてきたのである。

フランス人映画監督と結婚し、サルトルやボーヴォワール、マルローといった一流の知識人との交友し、パリと日本を往還して活躍する背筋の伸びた知的な女性――メディアを通して定着した岸惠子のイメージは、いつまでも変わらぬ容姿とともに、いつの間にか神話化されている。しかし、こうした宣伝には、当然のことながら誇張がある。誰もがそうであるように、人生とはそれほど恰好のよいものではない。

米寿も近くなったこの人の生涯を静かに眺めると、いくつかの思い切った跳躍を認めることができる。映画の世界に入ったのも、フランス人映画監督イヴ・シャンピとの結婚も、イランやイスラエルを取材し、NHK衛星放送のキャスターを務めたのも、小説を執筆したのもそうである。未知の世界への挑戦は、それまでの自分に別れを告げ、新しい自分を受容することでもある。したがって『パリのおばあさんの物語』で老いを受容する心構えを新たにしたことも、未知の世界への冒険なのである。

とはいえ、われわれは生まれる時代も国も選べない。老いも死も拒むことはできない。歴史と同じく、人生は誰にとっても一度きりであり、そこには何か《運命的なもの》が関与しているのである。

岸惠子は、研究生時代、松竹大船撮影所から自宅に戻るときの、横須賀線の車窓から見える風景を回想している。最初は一人だけ三等車、やがてほかの俳優と同じ二等車になった。この区間の風景は、わたしもよく知っている。旧型の車両は内装が木製で、座席には灰皿があり、網棚は文字通り編んだ紐だった。扇風機が天井に付いていた。わたしの想像の中で、うら若い岸惠子は開けた窓からじっと外を眺めている。


《定時(五時)に終ったときに乗る横須賀線はすばらしかった。大船から、ヨコハマまでの二十分間、当時の私の唯一のぜいたくであった。今のグリーン車に当る、二等車の窓にもたれて、流れていく桃色の入道雲を眺めていた。》(『巴里の空はあかね雲』)

少女時代、岸惠子がまだ女優岸惠子ではなかった時代を回想する文章は、どれも生き生きとして生彩に富んでいる。有名な外国人俳優との交友を描いたエッセイなどは、あまり心惹かれるところがわたしにはない。本当はあまり書きたくないと本人も思っていたのではないかとうっすらと感じる文章もある。だが、それが岸惠子ではないとわたしは思う。(続く)

*次回は「パリ、1950年代」


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