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岸惠子(4)ある友情 秦早穂子

岸惠子が秦早穂子と出会ったのは、結婚してほどない夫シャンピの紹介だった。フランス系の映画輸入業者に就職して、シャンピの映画やゴタールの「勝手にしやがれ」などを日本に持ってきた人である。一九五八年に単身パリに来て、毎日ホットドックを食べる貧乏生活をしていた。岸は秦に惹かれるものを感じ、自分から積極的に近づいていった。

秦は一九三一年に東京で生まれた。岸と同様、一九四五年の大空襲に被災して自宅を失っている。「自分の目で見、たしかめ、納得しないかぎりは、もう何も信じまい」(『東京パリ闘い通り』注記なき限り以下同)という彼女の言葉は、「今日で子供をやめた」という岸の言葉と重なるものがあろう。

墨塗りの教科書で勉強していた女学校時代、物理学者湯浅年子の講演会が学校で開かれた。湯浅がパリにふたたび赴くのは一九四九年のことである。化粧気のない彼女が、キュリー家の人々について熱を込めて語るのを遠くから眺めながら、秦は強い印象を受けていた。そして秦自身がパリに行くことになる。

一九五〇年代のパリ。「その頃の日本人の多くは、みんな貧乏だった。たとえ金持の息子でも、送金する方法がなくて、あの手、この手でパリへやってきていた」。しかし「ここで、うろうろ、日本人同士がより集って勉強らしいことをしてみても、到底埒はあかないと思い込んでしまった」。

このような感受性を持っていた秦は、パリの日本人のなかでもかなり異質だったように思われる。「閉鎖的、批判的、かつ激しい拒否反応をもつ私は、これまでの間、心の底からゆり動かされるという人間には、滅多に出会わなかった」。「もちろん、立派な人に出会ったこともあるし、魅力ある人もいる。だが、無条件というわけにはいかない。時には、その人たちと笑い、泣きながら、どこかで冷たく観察してしまう。まことにいやな女なのである」(『巴里と女の物語』)と自己分析している。

当時のフランスは厳しい階級社会であり、保守的で、人種差別があり、カトリック教会も力を持っていた。そして映画業界への蔑視もあった。「ブルジョワ階級からみれば、映画人は異端者であり、いわば、与太者の世界であった。〔中略〕映画人は一般的には、軽蔑の視線を受けていた」という秦の証言は、岸にも見えていなかった時代の真実を語っていよう。秦が働く会社の中にもあからさまな階級があった。だが「人間、一番低いところにいると、よりよく、他の人間を観察できることも、私にはわかりはじめていた」。

秦と初めて会ったときの印象を、岸は次のように記している。

《私にそそがれる眼差しの中に、いくばくかの敵意に似た反発があった。世のインテリ女性が私に向ける、「たかが、『君の名は』のメロドラマ女優が……」という単純な軽蔑や、反感ではなく、もっと曲折した、含みの濃い障害を、私は感じとっていた。その障害は、私にとって未知であると共に清冽な刺激であった。私はこの人の友だちになろうと心に決めた。》(『パリ・東京井戸端会議』)

「二人の友情の滑り出しは、あまりすみやかにはゆかなかった」。しかし、境遇は違ったが、二人はやがて無二の親友となり、おびただしい手紙をやりとりした。映画のこと、夫のこと、子どものこと、母親のこと、生き方について、政治について。二人は本当にさまざまなことについて、胸襟を開いて語り合っている。昭和一桁生まれの女性が、仕事を持ち、独立して生きていくことの困難。二〇代半ばに知り合った二人が三〇代後半になり、日々の生活に格闘しながら互いに精神的に支え合っている。

自身の内面を綴る岸の語彙の豊かさと自在な表現力には驚くばかりである。岸は着飾っておらず、演技もしていないのだ。それに応える秦の手紙は、シリアスな世界情勢の話と、私的な優しい挨拶が混ざりあっている。

「このままでゆくと、また、いつか太平洋戦争の前みたいに、みんなにつまはじきにされてしまうのではないかという思いと、それより問題なのは、そのことには、ご本人は全然、気づいておらず、一路邁進しているという状態にあることです」「あのフランスの田舎での生活がなつかしく、今は遠い昔の、それはまるで、幼年時代のように、光にみちているように思われる。シアンピさんによろしく。デルフィーヌは歯をみがいていますか」という具合に。

それはさながら野の花々を無造作に束ねた、素朴だが心のこもった美しい花束のようだ。(続く)

*次回は「ユダヤ人ってなに?」

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