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次の10年の過ごしかた

年を越す準備

年末年始、なんかすごく忙しい。

今年は特に意識的に、年越しに向けて
いろいろ畳んだり仕込んだりしていった。

お店のキャスト全員と個別に会って
来年について話し合ったり(目標立てのために新年会もする)

可燃ゴミの最終日に間に合うよう
化石化する手前の瓶詰めを処分して冷蔵庫を磨いたり

おせちこそ用意しないけど、ちょっと豪華な食事を手配して取りに行ったり

元日に来る母に祝箸や敷き紙やお重を持ってくるよう頼んだり

暦の流れを大切にして飾りたい!と
フェスに行く前になんとか正月飾りを手に入れて
帰宅後に扉を磨いてから飾ってみたり

気分よく次の10年をスタートしたいって、奔走してる。
……これで疲れて不機嫌になるのは本末転倒だから、
適宜 休憩も挟んでいくのを忘れずに…

わたしの実家は
「すべき事」への到達ばかりを優先して
とにかくなんとか間に合わせた頃にはヘロヘロ
ということが本当に多かった。
「なんのためにそこまでして?」
って気づいたのは近年。変えたい癖の一つだ。


しあわせを味わえるか

つまるところ
30代は「しあわせを感じたい」のだと思う。
「しあわせになりたい」
「しあわせにしてほしい」わけではなくて
じぶんがきちんと
しあわせを味わえている状態を つくりたい。

20代はずっと
しあわせの「宿るところ」を探し続けた。
人なのか?環境なのか?お金?
それとも、生まれから決まってる?
今でもあんまり答えは出てないけど、
しあわせ の生息地はどこでもなさそうなことだけ
なんとなくわかった。


じゃあ…と 今度はしあわせそうな人 を観察した。
すると、どうやら好きなものを大切にしている。

「好きなもの」はなんでもよい。人でも物でも。
というのも その物体や人それ自体が尊い
…のではなくて、それを
「好きである理由」や「大切にする方法」を理解していること
がしあわせの秘訣らしかった。

冒頭の実家の話を思い返して、納得する。
「到達」を最優先にしているから、つまらない。
義務化するし、好きな部分を見つけるきっかけすらない。

たとえば、玄関に下げる正月飾り一つだって
その辺で最初に目についた手頃なものを
とにかく買って帰ればいい。

美しさとか、商品との縁とか、
そんなのを考えることは"意味がない"
とにかく「そういう形になっていればok」
こうやって生活してると、
気にいるもの・愛着が持てるものが見つかるまで
思い巡らす「余白」が発生しないんだよね。

そうして時が流れて、
本当はいろんなものに興味を持ちやすかったはずの"わたし"は
今日までいろんなときめきを捕まえそびれてきたような気がする。

わたしはたぶん、その「ときめき」を
ここ1〜2年で少しずつ身の回りに増やそうとしてるんだな。


きれいな貝をみせる相手

そういう、ときめき や 彩り がつまり
人生における「しあわせ」なのだとして、
ひとりでそれらを宝物として集め、眺めていられるか…
といわれると、結構 自信がない。

少なくともわたしのときめきや彩りは
仕事や生活に追われたらすぐに身を隠してしまう。
水をやるのを忘れたり、
風から覆いで守ってやらなかったりしたら
すぐ枯れてしまう あの薔薇のように繊細だった。


人と分かちあうことがしたかった。
こういうところが素敵で、かっこよくて
こんな想いを込めた背景があって、
それがわたしのこんな気持ちを刺激するから、
だからこんなに 胸がギュッとするのだと。


わたしが大切にしているときめきを
大切に受け取られてみたかった。
どんなに生活に追われていても
つらいことばかりでも、
そういうやりとりは 栄養になって
わたしのときめきを守り、育ててくれる。


わたしの大切な話をわかってくれるその人を
もっと「すき」になる。
わたしもその人の大切なものを知りたくなる。
セフレとか恋人とか友人とかお客様とか
関係性の名前はとりあえず横に置いて、
その人とわたしが「すき合える」時間がそこにある。


孤独の正体

いっぽうで、特に誰とも分かちあうことなく
20年も追い続けてるバンドがあるけど、
それはたぶん ちょっとした例外だ。
じぶんが誰にも話さずにしまっておいた
怒りや恨みや悲しみが燃料だったから
ずっと独りで、独りだからこそ、
大切にし続けられたのだろうと解釈してる。

いつも誰と居ても 孤独に感じていた。
ジワジワとじぶんを蝕んで
誰が隣に居ても、しあわせ は色褪せてしまう。

「大切に受け取られた」と感じられたことが
幼少期からずっと少なかった。
話しの流れ方、聞き方から感じとってしまう
寂しさが、ついて回った。
相手が大切に渡してくるものは、よくわかる。
わかるから、なるべくちゃんと受け取る。

「わたしのターンは いつ回ってくるのだろう…」
「気持ちをやりとりする」という理想の手前には
お腹いっぱいになるほどの絶望と孤独があった。
2022年で違和感がピークになって、疎遠になった友人もいれば
念願かなって付き合えた恋人とも別れを選んだ。


希望を鳴らせ

誰も彼も きっと寂しかったんだと思う。
わたしと似たもの同士ばかり
集まったのかもしれない。

受け取ってもらえない期間がもっと長かったり
受け取ってくれないなら受け取らないと決めたり
「到達」を優先しすぎたり それに恐怖したり
理想があっても目を閉じて 無いことにした

とにかく生き延びることが最優先
そんな人ばかりが目に入ったし、そばに居た。
世の中も徐々に冷えこんでいったから
余計につらかった。
有益なものだけが重用されて
曖昧なものは排除されて
理想よりも現実に追われるような毎日は
性別も 年齢も無関係にしんどい。

「しあわせ」のラインが"有用性"次第では
「息をしてること」まで下がるのなんて
一瞬なんじゃないかと不安になってる。


だから2023年は改めて
そんな「似たもの同士」に手を伸ばす仕事に
改めて打ち込もうと思った。
お客様と風俗嬢 という関係性ではあれど
「大切な気持ち」を交換する時間は
私生活よりよっぽど 生まれやすかったから。


人に関わりたい・しあわせ になってほしい
という欲望は劇薬だから、取り扱い注意だ。

仕事ではちょっとだけ、できるようになってる
…気がする。 
人生の中でたったの数十分なら
関わっても許される気がした。
変化するもしないも 距離があるからこそ
その人次第だと思えるし
変化したかどうか確かめようもなければ
支配性とか依存性だって生まれづらい。

私生活の方で、その気持ちの取り扱い方は
ついに20代ではわからないままだった。
それでも わたしはわたしの理想の形を大切に、
ちょっとだけでも似ている理想の形を
持っている人と 私生活でも歩みたい。
関係性は お互いにフィットするものがいいけど
とにかく そういう人を増やしたい。


今はまだ それが見つかっていなくても大丈夫。
「あれ?これでいいんだっけ」
「じぶんの毎日ってこんなはずじゃない」
「なにに ときめいて すき なんだっけ」
って一瞬 "我にかえる" 感覚がくる時がある。
その瞬間にサッとお互いの手をとりあって
ループし続けるゲームから下りていきたい。
これを読んでるあなたも、一緒に脱出しよう。

次の10年は、そういう風に過ごしたい。過ごしてやる。

…とまぁ
そんなことを考えていろいろやってんだけど、
年末休暇中なのにぜんぜんお休み感が無いぞ!!

わーーーん!!
年越しは飲んだくれてRIZIN見たりもする!!
のんびりしたいぞー!!!!笑

それでは、みんなも良いお年を。

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