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もう一人の自分と

「どうして自分だけがこんな目に…。」
と悲観的な気分になったことはありませんか。

少し重たい感じの書き出しになりましたが、僕は何をやってもいい結果が出ない十代前半の頃、そんなことを感じていた時期がありました。
そんな時に出会ったのが親鸞の考え方をまとめた本でした。

宗教の話をすると引く方もいらっしゃるでしょうが、僕自身は年寄りっ子で、お墓参りこそ欠かしたことはないけれど、基本的には『神仏』の存在をあまり信じていません。
もし『神仏』というものがあるとしたら、自分の中にいる“もう一人の自分”のことだと考えているからです。

以前、このエッセイで自分の人生で大きな判断の必要なことは友人に相談できない。結局は、自分で解決するしかないとお話しました。実はそういう時こそ、もう一人の自分と向かい合うしかない訳で、その相手を『神仏』と呼んでいると思っているんです。『宗教』というのは、その人生観、考え方・思考経路が同じ(共感する)人が集まる場のようなものというと少し乱暴でしょうか。

その本には「我々人の命もその体も借り物であり、誰であってもいつかは返さなければならない。だから、それを大事にすることは当然のことだし、その尊さは善人も悪人もみんな一緒なんだよ」
というようなことが書いてありました。その考えに触れた時、つかえていたことがスッと消えて、なんだか背中をポンと押されたような気がしたのを憶えています。

「なんだ、みんな同じなんだ…」と。
道に迷った時、まず、自分がどこにいるのか、場所の確認が必要で、それが分からない不安な状態だったのかもしれません。最近時間もあったので、その本を改めて読み直したのですが、新しい発見があって、ほかにも少し読み込んでみようと思ってます。

ところで、4月は出会いと別れの月ですね。
いよいよ今年も新入社員が入ってきます。中には、入社までに一年以上も付き合っている場合も最近では珍しくありません。

学生生活から社会人として新たなスタートを切る彼らにとっては、新生活に対する期待というよりも、不安の方が遙かに多いと思います。みなさんのところに配属されるのはまだしばらく先にはなりますが、よろしくお願いします。

今年は、スギ花粉の量が少ないそうで、例年よりは『花粉症』も軽くて助かっていますが、この苦しみだけは誰にも平等にくるものではないので、
「どうして自分にだけ…。」って、考えても変じゃないですよね(笑)。

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