詩を/と読む1(平出隆)
「(詩はつねに先触れである)」という断言めいたつぶやきを目にしてからというものの、こうして生きているうちにも見えないだけで、書いた詩や読んだ詩がなにかを暗示しているのではないかという気がしてきた。これはアガンベンというイタリア人の『哲学とはなにか』なる本にあった一節だが、そこで彼は哲学を後奏曲、詩を前奏曲になぞらえている。わたしは頭の固い人間なので、こうした区別を目にするとすぐ「代補」などという息の詰まるジャーゴンを連想してしまう。ただ、そこに秘められた哲学的な含意は別として、わたしたちが日々しゃべっているということ──言語活動をおこなっているということ──に註釈をあたえるのが哲学であり、その前触れとなるのが詩なのだという定義はとても美しいもののように思える。
毎週のこと詩を書いていると(そんなに書いてはいないけども)、生活と詩とが一致してしまう地点がある。生活が詩の材料となり、詩を読みまたは書くことで生を感じてしまうのは、なにかとてもおそろしいことのようにも感じられる。このまえ話を聞いた詩人は、「詩のことを考えないことはない」、「詩をなくした自分が考えられない」などと言っていたが、それはもはやわたしがわたしという詩になって、詩として生きるといったことと変わりはないのかもしれない。フーコーのいう「自己の芸術化」とはもしやこういうことだったりするのだろうか。
だが、詩が先触れなのだとすれば、わたしは詩を生きなくても良い。詩が先触れなのだとすれば、詩が暗に「予告」するわたしの生は詩と完全に一致することはなく、しかし詩と分かちがたく結びついていることになる──代補──。詩を読んだり書いたりすることはいわばひそやかに前奏曲を響かせることであって、それは本奏に豊かさを与えるにとどまらず、その美しい音色自体がある種の快楽をあたえてくれることにもなるだろう。その快楽とは「先触れ」ともいう通り、生かなにかそれに近しいもの──旋律なのだろうか──にそっと手が触れてしまうような瞬間にこそあるのかもしれない。
最近、金井美恵子の短篇集『砂の粒 孤独な場所で』を読み返していて、神経症的な連想に行き当たった。収められている「花嫁たち」という短篇はデュシャンの前衛的問題作「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも(通称、大ガラス)」を発想のタネとして、ある種ルノワールを感じさせる「汽車のなかでの花嫁との出会い」を、反復を駆使した特徴的な文体で描いている。このエクリチュールの、まるで映画のスクリーンを撫でたときのようなざらざらとした手触りを感じるために何回か味読していたところ、ふと「花嫁」という作品があったことを思い出した。あまりに突然だった。
「花嫁」──平出隆が1972年に発表した詩篇の名前である。彼といえば「胡桃の戦意のために」や「若い整骨師の肖像」などといった改行のない散文詩が非常に印象的だったから、吉岡実の影響を受けたその初期の改行詩は記憶の片隅に埋もれていたのだろう。
太宰賞でのデビューと同時に現代詩手帖賞を受賞した金井美恵子も「吉岡実とあう──人・語・物──」(『現代の詩人1 吉岡実』所収)で吉岡との想い出を回想したり、小説のエピグラフに彼の詩を引いたりしているばかりか、『桃の園』という桃と少女のモチーフを受け継いでいる短篇では彼を思わせる歯科医が登場したりもする(「桃の木が一番美しく見えるのは、果実が熟してクリーム色の部分が赤く色づいて、それが小さな灯りのように木を飾る時なんです。黄金色の産毛に飾られた少女の膚のように、内側から輝いて見えるでしょう。触ると形而上学的な怪我をしそうです」という台詞は非常に印象的だった)。
だから、平出隆を思い出したのもただタイトルの関連だけというわけでもなく、吉岡実を介してのことだったのだろうか。「花嫁たち」と「花嫁」のあいだには、彼の「僧侶」がいる気がしてならない。
このふたつのあいだに影響関係を見ないことのほうが難しいかもしれないが、しかしこの出発点にこそ、天沢退二郎の指摘したような決定的な差異があるように思う。
最初、「ぼくの花嫁」と言われる「花嫁」は「完璧な死と誕生の儀式」を経て、「待っている」うちに静止した時間の世界に閉じ込められてしまう。いっぽうデュシャンの描くような「独身者」たる「おれ」はといえば、「動植物の詩的迷路」(吉岡実)をめぐるうちに「花婿」たることをやめ、ついには「花嫁とはこのおれだ」、「おれは不在 恋びとよ/おれは死体」と主張するにいたる。それは「上唇と下唇のあいだの夜」で、スクリーンに映る「贋の花嫁」を否定していくプロセスである。「触ると形而上学的な怪我をしてしそう」な処女性を持った少女=花嫁はもういないのだ。
ウェディングベールが「純白の捕虫網」へと変わり果てた先には、より鬱蒼とした動植物の森があるに違いない。詩はつねに先触れであり、怪我をしてしまうとしても触ることこそが重要なのだ。
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