成功者

生きているだけで儲け物とは言いますが、向上心を宿した人間にとって、ただ生きているだけというのはつまらない。ところで、私は動いていないと死んでしまう生き物で、階段を探し続けることが人生と定義している。成功者は何かを成すことだと定義されていますが、成さずとも私は成功を体験している。嘘ではなく、そもそも動いている時点で成功している。その延長線上にみなさんが定義する成功があるのだろうが、成功とはある種絶望ではないだろうか。螺旋階段を軽快に登っていると上の階段が急に崩れ始め、登ろうにも登る階段がなく、しばらくの間そこにポツンと私が棒立ちしているような感覚に近い。そこにずっと静止していると苦しくなるのだから、階段を全力で降りる。新たに次の階段を探索することでつまらない時間を忘れることを選択する。ただ、こういう話は他人の定義する成功者にならないと語れないと洗脳された論理に圧倒されますが、自分が解釈した他人に間違われそうな言葉で価値観を表明することに罪はない。そんなことよりも未熟者の視点というのも娯楽としてはあってもいい。ツッコミどころが多ければ、苦言を呈する娯楽として成立するが、僕はそんなことはしたくないと思っている。疑問をぶつけてくれる素人は、言葉の細部を再定義させてくれるのだから、これを娯楽として認識している僕はどのような対象であろうとも疑問を投げかける人間がいるだけで幸せになれる。さきほど出現した幸せというワードの話をしようと思う。幸せ=成功という構図が成立する刷り込みはどの時点で発生するのだろうか。唸りながら考えはみるが、そもそも刷り込まれているかを疑うべきだと考えた。大衆は画面の向こう側にいる一際輝く人物、成功者の虜になり、過ぎ去る時間の中で私たちが知っている成功者という存在は「大衆の関心が金に変換されている仕組みのおかげで暮らせている。」という事実に気づく。ある人間が金欠状態になれば、あれがあれば、これがあればと想像は膨れ上がり、成功者に対して異常な憧れが僕/私も成功者になればいいのでは?という安直な発想が幸せ=成功という構図を信じてやまないものにしているのではないだろうか。その価値観の中で生きていくと高らかに宣言するのなら止めやしないが、熾烈な競争を勝ち抜くというのは勝てないギャンブルをしていることと似ていると思う。ありきたりな話になるが、多くの屍の上でのさばっている存在が大衆の定義する成功者で、基本的には屍になる確率が高いのだから高すぎる目標を成功と呼ぶのではなく、低い目標で成功を感じられるような価値観を築き上げたほうが幸せを沢山感じられると思う。しかしながら、そんな質素な生活の中で幸せが築けるのかも人によって得意不得意があるかもしれない。異様にプライドが高い人間にとって、大きなことが成し遂げられない人生は意味がないという印象を受けていて、人が羨望する価値観の上を走らずにはいられないのなら、確率論を排除した気質重視の意思決定でもアリなのではないかと思っている。小さなタスクを自分で設定して幸福を感じられるのなら、いずれ人々が羨望する地位に到達できるかもしれないという期待が生きる糧になるのなら、実現するかしないかなんてどうでもいいことだ。決して夢の中で生きることが悪いことだと思わないし、人間は人間が思っている以上に動物的な側面が強いのだから、自分が思ったように動けばいい。動物性が強烈で社会から排他されるかもしれないが、最悪はセーフティーネットが人間的で文化的な生活を送る権利を保障してくれるのだから、自我を抑え込みすぎて社会的な動物になって鬱病になるくらいなら、そういった制度にお世話になることは恥でも何でもないだろう。そもそも好きで生まれたわけでもないのだから、他人より社会的な生活がも辛いと感じる量が多い人間が頑張らないといけないという強制力は破綻している。私はこうやって行動の結果、言葉が出現して、言葉の細部を考える営みはモヤモヤとした感情やどことなく出現してしまう劣等感の暗闇から救済してくれる光だと思っている。モヤモヤした状態が続けば同時並行的に出現している劣等感の量は指数関数的に増え、どんよりとした人生になるだろう。言葉の細部について考えて考えて捻り出す営みを続ければ続けるほど自分を肯定できることが多くなるからだ。自分自身を好きじゃなくなってしまうキーワードの細部を探索すると、肯定できる材料がちらほら出現して、それを元に悪影響のあるキーワードが浄化されて、むしろ好都合な言葉に進化する。これほど面白い営みはない。こういった自分に適した方法を知って実践して果実を得るというのも成功の一部だ。書き綴っているともっと言葉の細部を探索したくなってきたので、終わりにしようと思う。

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