思えばクソインプット

ワクワクを生むような情報の破片ってあるじゃないですか。商品が発送されて届くまでの間の「早く届かないかなあ。」という待ちきれないあの感じと似ている。どこかの本やら研究で、その場で幸せを噛み締めるのか、それとも近い未来に確実に起こるであろう小さなストーリーに心躍らせることの相対で、幸せなのはどちらなのかという内容だった。これは後者だ。というように、未来の時間軸に意図的に爆弾を用意することで過程は幸せな体験になる。爆弾という表現は、幸せな過程を踏み締める体験の先には良い意味でも悪い意味でも爆弾と化すということだから。こんなに頑張ったのにたいていは「こんなものか。」と一瞬の消費と風のように靡く燃え尽きが背後から差し迫る光景の連続がある。クソインプットは、そうクソインプットは中毒症状の中にある。生かそうにも生かせない情報だ。大衆の呟きは超個人的な問題で、これもクソインプット。エンターテイメントと看板を掲げるも学びを取っ払った関連動画の連続に動物的な側面が強い私は、間違った方向のワクワクに中毒する。知的好奇心ではなく、単なる好奇心のループを金に変える魔法のシステムの檻に私はいた。みんなはいるが、私はもういないようで檻の外はまた檻があるように、真に自由な人生はないように思える。だから、自分に合う檻を発見するための人生も悪くはない。奴隷精神のような文がたらたら壁から流れるように、汚物のような超個人的な問題は、私が私を見たとしても汚物だ。ここで言う汚物とはインプットする価値のないような情報を見せつけられてしまって、しかし記憶に残るような強烈な何かということだ。多分、今は不幸で、たっぷりと浸かってきた檻に恋焦がれているのかもしれない。新しいことは拒むようになってきているから、必死に必死に抵抗はするのだけど、どうしても昔の瞬間との比較はフラッシュバックのように止められるようなことではない。問題は解決に向かっていることを信じていたいが、目隠しをして道なき道を走るように進行しているのか退行しているのかの判断もできない。インプットしたからアウトプットしたからなんなのだろう。比較をなくして溢れ出る無意味の連続は、「暇つぶし」に回帰する。暇つぶしならばインプットでもクソインプットでも変わらないじゃないか。いや、クソインプットは何も生まないが、インプットはアウトプットを促進させるて生み出すのだから暇つぶしに困らないのか。いままで比較することで自分の価値観を築いて物事に意味を与えた。人よりも優位な立場が価値があるのだと信じてやまなかった。ただ、スコープの倍率を下げれば下げるほどその中に自分がいないことを確認する怒りや恐怖と落胆は、自分を傷つけるだけだと思った。比較を取っ払ったら世界がフラットに見えるのだけど、同時に価値のない世界になった。ここについてずっと迷っている。他人から提供された答えは求めていない。それは迷っていない。

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