人の予測

親族に空気を読めと言われ続けてきた僕は、人の顔色ばかりを窺うことを常に意識してきた。そこからちょっとだけ飛躍して、人が何を望んでいるのか、ということもたいていは分かるようになった。支配欲や金銭欲、嫉妬心をうまくキャッチできるようなアンテナを常に張っているので、

「この人は負けたくないからこんなに焦って僕を敵視しているんだろう。」

というようにめんどくさいドロドロとした競争が開幕しようとすると、僕はそれら全てが冷める。

「いいよ、お前の勝ちで。そもそも興味がないから。」

と言うと、それを逃げと判断した人間に執拗な回りくどい攻撃がいつもいつもいつもずっと行われてきた。そんなことでメンタルが病むなんてことはないが、めんどくさい上にウザくなってくると反撃をする。ほどなくして停戦が告げられるのはサディスティック的かまちょは構うことで欲が霧散する特質を持ち合わせているから。

確かに空気を読むとだるい争いを回避できる上に自分が輝ける環境を見つけやすい。断る能力が強固だとなおよいのだが、そんな完璧な人間はそうそういない。例えば金銭欲が強い貧乏は平気で人から金を借りにくる挙句に金を返す姿勢すら見せず、それに対してもう貸せないと告げると

「友達なのに?」

と恐ろしいフレーズを振り翳してくるのだから神妙な顔になる。この人は自分以外の他人を利用できる人間とそうでない人間に分ける作業を無意識に繰り返している。利用できる人間とそうでない人間の違いは断れない心を持ち合わせるやさしい人かどうかによるので、自我が強い強者にはペコペコとおこぼれ狙いで利用しようとする。

比較を常にしている人間は、友達の素晴らしいスキルや出来事を自分が必死になっている範囲内であればあるほど素直に喜べない。常に多方面で成長を続けている人間と比較癖のある人間は相性が悪い。比較癖のある人間は追い越されることでネガティブな感情が引き起こされるが、その逆はポジティブになる。他人の不幸は蜜の味というやつだ。僕のような人間は中庸を意識しているので、マルチな分野を行き来し成長したいと願っている善良な人間だから、同じような人間としか分かり合えない。いいねも押せないような人間は友達よりも高め合える仲間として関わっていきたい。必要以上に関わらず雑談もしないし遊ばないが、ある目的を達成するために高めあうことができるということが分かった段階で心が軽くなった。地球上のほぼ全ての人間は友達になれないのだから無理に関わろうとしない。たいてい声の調子や顔の動作と身体の動作、なぜこのタイミングでこの言葉を選んでいるのか?とか、なぜこのような判断を下したのかというのを総合的に加味した上で考えているから人と関わると疲れてくる。人と関わって自然と覚えたテクニックと読書によって学んだ人の心理が勝手に脳内で交錯して関わる人間を選んでいる。この自分の中の定説が間違っていることを試すために、あえて関わらない人間と関わるといつも痛い目に遭う。変な面倒ごとに巻き込まれたり、喧嘩を繰り返したりと他にも散々嫌なことが続け様に起きるのだからもう証明できただろうとコンフォートゾーンにずっと居たい気分になる。

空気を読み続けると争いに巻き込まれずにマイペースになれる環境を見つけることができるから、親には感謝している。鈍感になるのは気づかずに終わり、敏感になると気づいて行動ができる。僕は後者になれて幸せだ。もっと気づきたい、そう思えるから。

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