失っても嘆かなくなりつつある

昔はよくパプニングが起きる度にお祭り騒ぎになっていたが、今はそういう時もあるよねと呟く程度で、これは何を意味しているのか探りたくなった。感情が鈍化しているのか、はたまた人間的に成長したのか、それとも予測不能な事に慣れたからなのか、原因は分からない。何が正解で何が失敗かなんてこの事柄に関してはとても難儀で、一つに絞ることは出来ない。むしろこれは複数の経験が失っても嘆くことのないある種の頑丈さが形成しているのではないだろうか。子供であることを願うと同時に大人である側面も願っている自分は、二面を使い分ける精度を向上させることに努めている。大人であればあるほど楽しむことよりも生産性を重視するだろうし、子供であればあるほど結果よりも快楽の優先度が高い。これは僕の中に潜む子供と大人の側面が持ち合わせている特徴だから、あらゆる人間に当てはまることはないだろう。幼少時代にどのような気質であるかどうかにもよるだろうし、早い段階で自己が確立している賢い人間も中にはいるだろうからそれぞれの子供の定義は違うと思う。一つ考えたのは、感情の起伏が激しい子供の自分を大人の自分が抑圧するように言い聞かせている制御形態になっていると思う。感情のコントロールというのはそういうことではないだろうか。無意識にゼロタイムで大人と子供の二つの側面は切り替わっていると思っているが、完璧に聖人のような人間として成熟しているわけでもないので、子供が圧勝することもある。大人の自分が合理的に考えて機械的に行動するように子供にオーダーする力を鍛えなければならないのかもしれないが、その方法は失敗をなるべく早くサイクル化することではないだろうか。前段階として、そもそも失っても嘆かないことが正義だとする考えを疑うことも重要かもしれない。例えば、失っても嘆かないことは責任の逃避に繋がることもあるだろう。保持したい地位や名誉を失っても嘆かないというのは人生の転落を防ぐ気力を霧散させているかもしれないが、はたしてそれは正義なのかと言われると分からない。天秤に吊るしてみても諦観か執念どちらも拮抗しているように見えるが、僕の哲学は苦痛を避けるということを重点的に置いているので、やはり失っても嘆かないような心を養うことは僕なりの正義だと思う。苦痛をあらゆる方法に頼って苦痛と感じなくさせることの表現として苦痛を避けるという言い方をしている。元々はメンタルが弱い僕だが、適したマインドを模索して、ある程度の型を決めてしまえば周りからはメンタルが強いと思われる。実際にメンタルは知識によって頑丈になると言える。無知はあらゆる暗闇を生み出すが、それを照らす照明が知識だと考える。何も情報がないというのは敵がどこから攻撃してくるかの予測がつかないから怯えて何も対策を講じることもできないので、情報がある種の安心材料になるであろう情報収集をメンタルが弱い人間ほどそういった傾向にあると思う。ただ、一生懸命に考えて情報を集めてもわからないことというのは半永久的に出現し続けるので、臨機応変に動き回らないといけないタイミングのマインドは失敗してもいいと自分を許すことを心がけたりすることでも行動の幅が広がると認識しているが、矛盾することも厭わない私はころころと意見を変える柔軟性を持ち合わせていることは何度も言い続けている。矛盾を恐れた時点で何も変えようとしないことの証明になるのだから早く矛盾を消費する事で矛盾の回数の減って質の良い意思決定ができると思っている。強烈な失敗をこの書き綴っている合間に冒してしまったが、前向きに爽やかになれている。涼しい気分に落ち着いて、だけど強烈な失敗だけれど、失敗があるだけありがたいと本気で思っている。子供の側面を全て出し切ると思い通りにいかない無力感の抵抗であろう怒りの感情が爆発して、瞬間的に憎しみの対象が無数に広がる。これまでいくつも失敗をしてきたおかげか、失敗に対する怒りが年々と軽減されている。アンカーマネジメントやらのテクニックを使っているわけでもなく、自然に大人の側面が育って失敗を快楽として認識している。本気で取り組む対象に注いだ結果の失敗は、連続的に注げば注ぐほど論理的に考えても失敗は防ぎようのない当たり前の現象で、それは失敗が起こる事で使い方によっては失敗の確率を低下させれるのだから失敗と認識できている時点である意味での勝利かもしれない。どんどんと肯定的な意見が湧いているが、否定的なことも考えてみる。失敗するつもりで挑むのはどうなのだろうかと思うが、いつも私は成功する気持ちで前向きに取り組む。その上での失敗はもう先ほどのことで完結している事柄だろう。考えるまでもない土台のようなことを延々と悩むように自己的に議論していてもしょうがないのだからやめにしよう。こういった書き綴られている内容は自己啓発なのだろうか。考え方一つでその物事を継続するかしないかを決めるのだから、これが自己啓発だったら私は冷やかしている人間の一人にはなれない。そんなことはどうでもいいのかもしれないが、こうやって考えを言語化するのは脳内の掃除を意識的に行なっているようで、自分が整理されている感覚になる。私は常にごちゃごちゃした考えの中で生きていて、実験的に一つ一つをしらみつぶしのように検証することがとても大好きかもしれない。それを脳内で解決するのは記憶力が求められるのだけれど、人よりも優れた記憶力を持ち合わせていないのだから言語化はそういった側面で私を助けてくれる。頭のいい人間の直感は当たると言うが、その分野で注いでいる検証時間が足りないと直感は当たらないと思う。無駄を削りに削った圧倒的な境地にいないと、それはただのギャンブルで、それも勝てる確率の低すぎるギャンブル。何も行動は起こさずに宝くじに縋るだけの状態というのは好きではないが、何か行動を起こしたとしても勝てる確率は上がるだろうが確実性は付き纏わない。これも奇妙なもので行動しないと何も生まれないのだから動いたら動いただけ中長期的に確実性に手が近づいていくのはみんなは分かっていて、ある種のトラップかもしれない。みんなが分かっているのになぜみんなはイマジネーションが実現できないのと考えてみると、さまざまな要因はあるが、結局そんな理由は考えずにとにかく夢というのは一握りの門ということになっている。夢に全力投入するのもいい人生かもしれないが、リスクが背後に忍び寄って安定を催促するように、ゼロリスクを担保とした上での夢追い人として形成するのも悪くはないかもしれない。ゼロリスクと言っても変化の多い時代に完全なゼロリスクは形成できないかもしれないが、そのために本を読むことが一番いいのかもしれない。確かにスキルと呼べるものを研鑽して職業として生かせることをやることが一番と考える人間もいるだろうが、そのスキルは人間がやるべきことなのか?と将来的に考えるといらないものばかりで不安が募る。そんなことよりもこの時代に生まれてきて、何かその時代の今にしか参加できないことに時間を投じるべきだと思う。そのために薄い匂いしか放たないチャンスに気づける嗅覚を養うべきだと思う。本はそれを援助してくれる。総合的に知能を上げてさまざまな社会的事情を考えさせられて情報に対してのハードルを下げてくれる。本を読めば理解できる情報の数が増えるのだからそれだけチャンスに敏感になる。生まれてきて時代の波に乗れなくても私は失っても嘆かないメンタリティーを形成しているので、病んで自殺なんてしないだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?