不気味なモーション勉強法

突発的に訳の分からない動作をする人間を傍目で見たり観察すると不気味で、落ち着いていることが周囲に求められる一つのスキルだ。小学生の低学年の頃は授業中にそわそわすることが抑えきれずにいたが、年を重ねるうちに落ち着き払った態度と所作で黒板の情報を右から左へと流していった。ただ、つい先日に分かったことがあった。それは、不気味な動作をしながら覚えないといけない勉強をすると楽しくてしょうがない状態が続いていった。勉強をすると頭のほうがすぐに疲れてきて、向いてはいないけれどもやらないわけにはいかないというある種の呪いを受けていた。解呪が不気味な動作を突発的にすることというイカれた価値観は到底理解できないことかもしれない。私はいつも常識と戦って自分にぴったり合うような非常識を探し求めているから、大部分の周囲の人間からはこの光景を見られると避けられるだろう。先に断っておくと、見知らぬ人間や知人、恩人には至って普通の人間として振る舞うように心がけている。周囲の人間が嫌がるような動作を公共の場ですることは勿論しない。迷惑系の人間にはなりたくないという願望を持っているからだ。だからこそ私は一人の時間を大切にして、開放的な自分の実験をするようにしている。気心許した友人の前では本来の自分を曝け出しているが、やらないといけないようなことはたいてい一人でやるほうが効率がいい。作業を取り組む上で不気味で突発的な多動をしていると幸せというよく分からない概念を感じることができる。それは以前のような疲れ切った感覚にすぐなる脳みそと、不気味な動作だがこれにより疲れないし感覚的に気持ちのいい状態が続く脳みそとの比較が幸せを形成しているかもしれない。学校生活を送って凝り固まった自分に合うかも分からない周囲の目を気にした行動と精神の常識をぶっ壊すことが重要だと気づけた。動かないと脳が固まるという感覚はどこかの研究機関が追求しているのだろうか。私の場合、脳のキャパシティーが小さいから勉強してもすぐに疲れるのだろうと完結していたが、「勉強するときは落ち着き払った態度で臨まないといけない。」という呪いに耐えていることが辛かったという事実を発見できた。勉強を嫌悪していたわけではなく、学校生活の常識の刷り込みが勉強嫌いを促進させているのだと思う。もし、動きたくても動けない環境にいるのなら、子供も大人も私と同じような感覚なら、そこはどんな場所でも刑務所だろう。

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