言語化の意味ってなんだろう

強烈なトラウマがあった中学の夏、汗をダラダラと流して仲間と部活動に勤しんでいた。体育館のコートで他校の対戦相手がネット越しに佇み、ここで得点を入ってしまえば敗北してしまう緊張の一瞬、仲間とのコミュニケーションエラーでボールが跳ねる音とどんよりとした空気感は忘れられない。仲間の一人からプレーに関する指摘を受けたが、参考になる意見だったので受け止めた。次の対戦中に、指摘をした仲間が僕と同じようなミスをしたので、「お前もできてないじゃん。まず自分から直せよ。」と言うと、怒りの表情で、ずしずしと足音を鳴らしながら眼前まで差し迫り、怒鳴り散らす。当時の僕は、言語化の能力が乏しく、言語に対してのモヤモヤがあるせいで瞬時に言いたいことが言えないもどかしさを抱えていた。相手が怒鳴るものだから僕は理不尽なことをされていると感じて、咄嗟に訳の分からない日本語とは思えないようなことを言ってしまい、さすがに怒鳴ってきた仲間もクエスチョンマークを浮かべていた。帰り道、とぼとぼ歩きながら、僕はいつも直感で言いたいことは決まっていて、それなのに日本語として瞬時に落とし込むことができない己の無能さを呪った。それからというもの、「言いたいことを言うようにしよう」というマイルールを設定して、誰に対しても失礼なことから人が喜ぶようなことまで幅広く思ったことは伝えるようになった。活字を読むと言いと教えてくれた国語の先生の影響で近くの書店で自己啓発本やアカデミックな本、オカルト的な本やら健康本と幅広い分野の本を噛みちぎるように貪欲に読み進めていった。言いたいことを言えないこんな世の中じゃポイズンという世の中を憎むようなどこかで聞いたフレーズがあるが、僕の場合は多分だけれど言いたくても言えない原因が自分にあることが許せなかったのかもしれない。国語の授業で議論をすることになったあの時も、言いたいことがあると直感でわかっているのに自分の言葉で言い表せず、手を挙げてただ立っているだけの自分のポンコツさ加減には自己評価を下げざる得なかった。そう思うと言語化が出来るようになることはたとえ自分自身の能力が低くても相手に言い包められないという利点があることに気づいた。確かに行動で証明することの重要性は言われなくても分かっているが、なんでも行動で証明するのは自分の貴重な時間を浪費する事とイコールの関係になる。例えば、そんなにプロプレイヤーにケチつけるならお前が実際にやってみろよ、と言われて行動で証明しようにも膨大な時間が投入する必要がある。こんな場合でも言語化した言葉を使って提案を断るほうが圧倒的に自分の時間を獲得できる。言語化のスキルを上げることによって、言葉を使って合理的に物事を考えられるようになるはずだから、より一層相手のペースにのまれずに利用されない生き方を進むことができる。然しながら言語化を高めることに特化することは重要なのだろうか?ある程度の領域まで言語化できるのなら、それを生かした形で様々な分野の補助的な役割を総合的に果たすことの方が僕は優先度が高いと思う。何かに特化した人間というのは非常に魅力的で機械に変え難い何かを醸し出しているので、そういったルートに賭けるのも否定は出来ない。モヤモヤの正体を明かすことで自分自身の問題を浮き彫りにさせることが成長にも繋がるのだから、言語化に関してはある程度の能力で十分だと思う。ここ最近は「エルサレムの歴史と文化」という本を読んでいるが、その内容の一部にバベルの塔を紹介していて、「焼いた煉瓦とアスファルトを使って高い塔を建てたが、人間が神に挑戦するような企てをすることを危ぶみ、神は彼らを全地に散らして言語をばらばらにした。」という一節が言語化の話と繋がりそうで非常に面白いと感じた。言語を各地に散らしたことによって、その国の言語ならではの表現というのも同時に生み出す結果になるのだから、僕にとってはとても嬉しいことだと感じた。言語学習が趣味でそれは付け焼き刃程度ですが、異国の言語に触れると同時に日本言語の表現も学べてより一層言語化のスキルに拍車がかかる。尽きることのない言語学習は生涯を通して遊べるおもちゃであり、死ぬまでそれが約束されているという事実をその一節を読むことで思い返すことができてゾクゾクとするあの感覚は生きててよかったと思えるほどの快楽だったに違いない。言語化という言語とのコミュニケーションはある種の親友のような感触で温かいのだからもっと仲良くなりたいと思う。言語化の意味というのは親友を喜び合うことに近しいのだと学べた。

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