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愛国機 (陸軍戸山学校軍楽隊)。

伊藤隆一指揮、陸軍戸山学校軍楽隊による作曲及び歌唱伴奏による「愛国機」。流行歌の世界に進出して八面六臂の活躍を開始した佐藤惣之助が作詞を担当しています。1903年にライト兄弟によって初披露された飛行機は、10年後の第一次世界大戦では新兵器として登場。日本でも明治43年に飛行機が導入され、同年末には徳川好敏大尉の操縦で初飛行に成功します。陸海双方の航空隊で次々と開発されて行くのですが、当然ながら其の生産に掛かる予算は小銃や装甲車の位ではありません。1930年頃の相場では、戦闘機一機当たり五万円前後と高額でした。まして当時は不況も交えた軍縮時代ですから、おいそれと大量生産だなんて訳には行きません。其の頃、民間の各種団体や自治体が小まめに集めたお金を国に納め、其の予算を兵器生産に充てると云う「国防献金運動」が行われていました。その献金でヘルメットや小銃に戦車、野砲に高射砲、そして飛行機が生産され、献納された機体は海軍では「報国機」そして陸軍では「愛国機」と称されました✈️。

「愛国機」は満州事変後の昭和7年に書かれまして、同じ陸軍軍歌である「嗚呼、古賀連隊」も手掛けた佐藤惣之助に歌詞が託されます。力不足で詳細な作曲者は不明ですが、メロディは戦間期らしく平易かつ陽気なもので、全コーラス合唱と云う明治時代の軍歌の流れを汲むピョンコ節となっております。軍歌と云うよりも小学校の運動会で流れる様な校歌、または応援歌風の旋律と言えばお分かりになるでしょうか。こうして献納された飛行機は昭和6〜8年の間だけで、陸軍は75機、海軍は28機であったとされ、新聞でも大々的に報じられました。献納式は常に厳かに行われまして、立派な祭壇が設けられて神主による御祈祷が行われ、更に時の人気力士も招かれてお清めの土俵入りもある程で、国民からの献納が如何に神聖視されていた様が窺えます。儀式の後は其の土地の上空を初飛行して、見上げる地元の人々は歓呼の声を送ったのでした。裏面も同じ陸軍軍楽隊の「独立守備隊の歌」組まれ、レコードは昭和9年初頭に廉価盤として発売されています😀。

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