【発売前全文公開】歴史スクープ! 川底に沈んだ 1500年前に作られた前方後円墳が 令和に奇跡的に出現!(歴史研究の最前線)
監 修 ・ 文 / 重 田 勉
琵琶湖に注ぐ日野川周辺の古代の情景とは? 江頭南遺跡の発掘調査
県内有数の河川の底で見つかった古代の遺構、江頭南遺跡の発見と、今回の発見に至るまでの発掘調査について振り返る。
江頭南遺跡の発見と
本格的発掘調査の開始
2019年5月、近隣住民が河川敷で野鳥を観察中、日野川河道内で円筒埴輪を発見した。埴輪は破片を含めて6基分あり、うち4基は樹立した状態だった。この発見により、日野川河川敷内に古墳が存在することが明らかとなった。江頭南遺跡の発見である。
2022年、河川改修工事に伴い、江頭南遺跡の本格的な発掘調査を行うこととなった。対象となるのは2019年埴輪出土地の南側の部分。周囲に比べ、若干高くはなっていたが、埴輪の発見がなければ古墳とは気づかないところである。
しかし、遺跡は川の中。4年前とは地形が変わっていた。当時は徒歩で埴輪出土地まで行けたのだが、度重なる豪雨と増水により、新たな水流ができ、埴輪出土地は完全に孤立した中洲と化していた。現地へ行くには徒歩で渡渉するしかなく、掘削用重機などの搬入は不可能な状況であった。従って、調査を進めるには人力により厚い堆砂を掘削するしかなくなった。
調査の結果、墳丘が良好に残存し、新たに3基の埴輪が並んでいることが明らかとなった。掘削深度は2m近いところもあり、墳丘はさらに下に続きそうであった。もはや人力での掘削は危険な状況となっており、 翌2023年、工事側の協力を得て、中洲の南側の水流を堰止め、掘削用重機を用いて、厚い堆砂を除去した。これにより古墳の全容が明らかとなった。
埴輪列の出現で判明した
前方後円墳の存在
堆砂は厚いところでは3m近くあり、かつての墳丘は完全に水没していたようである。墳丘の中程に埴輪の破片が帯状に集中する部分があり、慎重に調査を進めたところ、倒壊した埴輪が列を成して出土した。その数は13基。それ以前に出土した埴輪とを合わせると、22基出土したことになる。
出土した埴輪列は、いずれも南西方向、下流側に向かって倒れており、水流により倒壊した様子がよく分かる出土状況であった。倒壊しているものの、埴輪ひとつひとつの形が分かる状態であることから、急流によって倒れたのではなく、緩やかな流れの中で徐々に倒れ、堆砂に覆われていったことが分かった。
水流にさらされながらも、埴輪列が残ったことは、古墳の墳丘が頑丈に造られていることも関係している。墳丘は、消失した部分も多いものの、古墳の形を留めていた。このことは墳丘の盛土に用いられた土が、水に強く、乾燥状態では強固になる粘質土であったことが大きな要因である。
どのような形の古墳なのか?
出土した埴輪列の位置関係から想定してみる
さて、川の中という特異な立地にある江頭南遺跡の古墳は、どのような形の古墳なのか。水没し、水流にさらされていたこともあり、墳丘が消失している部分も多くあるが、これまでに出土した埴輪列の位置から想定できる。埴輪は、墳丘の形状に沿って並べて据えるものなので、埴輪列の平面形状は、古墳の形を示すものとなる。
2019年出土の6基の埴輪は、残存墳丘の北側に位置し、2022年の3基の埴輪と2023年の13基の埴輪は残存墳丘の南側に位置する。残存墳丘を挟んだ2列の埴輪列は、平行するような位置関係ではなく、ハの字形となる位置関係である。このような形となる古墳は、前方後円墳であり、残存墳丘は前方部の一部ということになる。
古墳といえば埋葬施設が注目されるが、ほとんどの場合後円部にある。しかし、後円部があったと考えられる部分はすでに川になっており、残存墳丘の名残りも確認できない。古墳の範囲を示す裾部分も浸食を受け、周溝等の有無は不明である。強固に盛られた墳丘も、複雑な川の流れで浸食されたとみられる。多くの部分が浸食されて消失しながらも、前方部の一部だけが奇跡的に残ったのである。
以上のような状態であるため、前方後円墳だったことは分かったが、その規模は不明である。
新発見の古墳は何を意味するのか?
古代における近江の重要性とその様相
新発見のこの古墳、何を意味するのか。江頭南遺跡が所在する近江八幡市は、1954年に旧郡の蒲生郡の村々が合併してできた市であるが、野洲郡の一部も含まれている。江頭南遺跡の位置は野洲郡にあたり、蒲生郡と接する位置にある。
前方後円墳は、地域の有力者を示す墳形の古墳であり、江頭南遺跡の古墳も含めて、野洲郡内には5世紀後半~6世紀前半の前方後円墳が5基あったことになる。
野洲郡や栗太郡の古墳時代の遺跡は、その卓越した内容から、古墳時代の近江の先進地域であったことが分かってきており、今回の調査によって改めて野洲郡域が、近江において重要地域のひとつであったことが明らかとなった。
一方、滋賀県内には多くの河川があるため、今回のように川に埋没した未発見の遺跡が存在する可能性がある。今後、それらの遺跡が発見され、調査されることがあれば、古代の近江の様相がより明確に見えてくるかもしれない。
古墳の築造と埋没 どのような環境で造られ、なぜ川の底に沈んだのか?
なぜ江頭南遺跡の前方後円墳は川の中に沈んでいたのか? そして、この古墳はいつ、どのように造られたのか……。発掘調査によって判明した事実から考察する。
江頭南遺跡の古墳はいつ造られ
どのように埋没したのか
発掘調査において、遺構から出土する土器などの遺物の年代観から、その時期を知ることができる。古墳の調査ならば、埋葬施設の副葬品から考えるのが確実だが、江頭南遺跡の古墳の場合、埋葬施設はなくなっていたので、出土した埴輪の特徴と、埴輪列の位置関係から分かった前方部の形状から、可能な限り考えていくしかない。
出土した埴輪は須恵器窯で焼かれたものであることが、器面の色調や器面の調整痕から分かっている。須恵器とは朝鮮半島から伝来した陶器で、国内では5世紀前半頃~8世紀頃まで盛んに作られた。
江頭南遺跡の南方約3㎞には、県下最大の須恵器生産地跡の鏡山古窯趾群があり、操業開始は6世紀前半だ。埴輪が鏡山産かどうかは不明だが、距離的には問題なく、次に述べる前方部の特徴と、西日本では6世紀後半には前方後円墳はほぼ造られなくなることが明らかとなっていることから、6世紀前半頃が築造時期の下限と考えられる。
奇跡的に残った前方部をみるとかなり大きく開いているのが特徴である。例えば、奈良県の箸墓古墳のように、初現期の前方後円墳の前方部は、細くて開き方も狭い。
一方、5世紀の大仙陵古墳の前方部は、太くやや大きく開く。このように、古墳時代前期から後期へと時期を経るにつれ、前方部の形状が変化していく。江頭南遺跡の古墳は前方部が開き気味であることから、古墳時代中期~後期、5世紀~6世紀の前方部の特徴をもっているが、5世紀前半の須恵器窯は地方に普及していないことを考えれば、5世紀後半頃を築造時期の上限と考えられる。
以上のように、埴輪と墳形の2つの面から可能性を考えれば、江頭南遺跡の古墳の築造時期は、現段階では5世紀後半~6世紀前半頃と考えている。
最大の疑問 川の中に古墳がある理由とは? 古墳時代の琵琶湖の水位は今より低かった・・・
互いに影響し合う
琵琶湖の水位と流入河川の水位
最大の疑問は、川の中に古墳がある理由だ。冒頭でも述べたように、滋賀には広大な琵琶湖と、多くの河川がある。現在の琵琶湖の水位は、南郷洗堰で制御されているが、古墳時代には洗堰や河川の堤防などもない。従って、琵琶湖の水位と流入河川の水位は、互いに影響し合うことになる。
川は山間地で谷を削り(浸食)、削られた土砂は下流へ運ばれ(運搬)、平野部では流れが緩やかになって川底に溜まっていく(堆積)。琵琶湖の水位が低下すれば河口は前進して沖合で、上昇すれば河口は後退して内陸側で堆積作用が起こる。
昭和の後半から平成の初めにかけて行われた湖底遺跡の調査では、かつての琵琶湖の水位は現在よりも低かったことが明らかとなった。古墳時代の琵琶湖の水位は現在よりも低く、湖岸線は今より沖合にあったことも分かっている。
琵琶湖の水位は時代を経るにつれ上昇傾向にあり、古墳時代よりも後の時代に内陸側で堆積が進み、江頭南遺跡は徐々に埋没していったと考えられる。つまり、古墳築造時から川の影響を受けていたわけではないということである。
いつの時代も交通の要衝として
歴史の舞台に登場する近江の地
やがて、いつの時代かに日野川の両岸には堤防が築かれる。川は堤防で固定されない限り、弱い地面を浸食しながら流れを変えていく。人工的に堤防で固定されれば堤防内側を流れることとなり、上流から運搬されてきた土砂は堤防内で堆積していくが、堆積作用ばかりが起こるわけではなく、記録的な豪雨などで著しく増水すれば、堆積した土砂は浸食を受ける。江頭南遺跡の古墳は、埋没していた古墳周辺の堆積土が少しずつ流されてその姿を現したと考えられる。
近江の地は、いつの時代も交通の要衝として歴史の舞台に登場する地域である。川や湖といった地の利が活用できる反面、川の増水や琵琶湖の水位上昇という自然の摂理と隣り合わせの過酷な条件下にあったともいえる。従って、地形や景観もまた時代と共に変化し続け、山間地では削られ、平地では埋没した遺跡が存在すると考えられる。江頭南遺跡は、様々な条件が重なったことで、奇跡的に現代に姿を現したのだ。
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