革命の灯火よ〜孫文と同志たち〜

1839年
その港には黒煙が舞っていた。
アヘン禁輸を取締る欽差大臣きんさたいじん林則徐りんそくじょはイギリス商人が扱うアヘンを全て没収し全て焼き払った。
1840年
イギリス東洋艦隊は砲撃を開始した。
後にいうアヘン戦争の勃発である
敗戦後、林則徐りんそくじょの意を受けて魏源ぎげんは「夷の長技を師とし以て夷を制す」と海図図志を著す。
1851年
洪秀全こうしゅうぜんを天王として太平天国たいへいてんごくの乱勃発。
賠償金や不平等条約による増税により民衆の暮らしは困窮し、その不満が宗教に向かうことで太平天国軍は膨張し全土に広がりをみせた。
そしてこの時洪秀全こうしゅうぜんの一族のひとり洪仁玕こうじんかんが近代化を目指した資政新論を建議する。
この内容が取り締まった曽国藩そうこくはんに渡り、後にいう洋務運動へ。
しかし戦乱を鎮圧した主力が正規軍ではなく曽国藩そうこくはん李鴻章りこうしょうといった個人の私兵軍だった事が軍閥化に繋がり、その後の清国の運命を握っていく。
1856年
アロー戦争勃発。
1884年
清仏戦争勃発。
1894年
日清戦争勃発。
立て続けに大敗北を喫した事で中体西用論の洋務運動は限界を迎えた。
これにより近代化だけでなく制度そのものを変える変法自強運動へと発展していく。
革命の夜明けは近づきつつあった。

1895年
ハワイ沖にて…
興中会こうちゅうかい発足。
若き日の孫文そんぶんがそこにいた。

【革命の灯火よ〜孫文と同志たち〜】
【序章:保守派との対立】
主人公:譚嗣同(たんしどう)
【第一章:清国政府との対立】
主人公:宋教仁(そうきょうじん)
【第二章:中華帝国との対立】
主人公:黄興(こうこう)
【第三章:北洋軍閥との対立】
主人公:孫文(そんぶん)
【第四章:北洋政府との対立】
主人公:蒋介石(しょうかいせき)
【第五章:日本軍との対立】
主人公:汪兆銘(おうちょうめい)
【第六章:共産党との対立】
主人公:蒋介石(しょうかいせき)
【終章:アメリカとの対立】
主人公:毛沢東(もうたくとう)

【序章:保守派との対立】
主人公:譚嗣同(たんしどう)

清国は欧米列強により全身を喰い阻まれ半植民地の程をなしていた。
ただし骨と皮だけになっても心臓は未だ動いている。
その心臓が…
西太后せいたいごうその人である。

西太后は権力の魔道に取り憑かれ贅沢を極めた。
民衆は苦しめられ官吏は腐敗した。
それでも彼女は絶対的な権力を掌握する事に長じ、列国に対峙出来る唯一の人物であった。

時代は変動せざるを得ない。
彼女もそれは痛感していた。
そこで傀儡であった若き皇帝光緒帝こうしょていに将来の政権移譲を含み任せてみた。
もはや私の時代ではない。
そう思ったのかもしれない。

光緒帝こうしょていはすぐさま取り掛かる。
近代化のみ発展させる洋務運動になり変わり、政治体制そのものを変革する変法派を政権の中枢に入れ改革を断行したのだ。
康有為こうゆうい、その右腕の梁啓超りょうけいちょう、そして譚嗣同たんしどう

それは成功するかに見えた。
しかし変法派の譚嗣同たんしどうは逸った。
西太后の気まぐれによって受け持った権力を完全に掌握する為に、最大軍閥の袁世凱えんせいがいを招き入れ西太后へのクーデターを画策し実行に移そうとしたのだ。

譚嗣同たんしどうは確信していた。
それは成功するだろうと。
だが、現実はそこまで甘くなかった。
袁世凱の密告により西太后はクーデターを阻止し譚嗣同は捕われ処刑、光緒帝は幽閉され、変法派は弾圧により壊滅した。
西太后は復権した。
改革の芽は潰え、志しある者は清国を見限った。
改革から革命へ。
清国打倒の風は譚嗣同たんしどうの屍から吹いた。


【第一章:清国政府との対立】
主人公:宋教仁(そうきょうじん)

扶清滅洋をスローガンに国粋的な政治結社である義和団ぎわだんは各地に広がりを見せていた。
始め鎮圧による平定を試みた西太后せいたいごうであったが、列強の圧迫に辛酸を舐めさせられている我が身と重ねて考えを改めた。
その力を利用して列強にぶつけようと。
西太后は列強各国に宣戦布告をした。

義和団は在留する列強諸国の租界地全てを強襲した。
しかし混乱による喧騒の中、芝五郎しばごろう率いる日本軍を中心に各国はまとまり危機を脱出。
義和団事件は失敗した。
西太后にとって最大の誤算は各地の軍閥が誰一人として動かなかった事だった。
もはや清国の指揮系統は完全に瓦解していたのだ。
列強によって食い荒らされた全身は残った骨すらも既に腐食させ、ボロボロにされていた。
西太后は義和団を捨て去り、列強と終戦交渉に入った。

しかしこの事が革命の機運を民衆まで広げる事になり清国の命運を定める。

1903年:蔡元培さいげんばい章炳麟しょうへいりんらが鄒容すうようの志と共に光復会こうふくかいを設立。
1904年:黄興こうこう宋教仁そうきょうじんと共に華興会かこうかいを設立。

この頃各地に革命勢力が現れ武装発起しては鎮圧された。
しかしその灯火は消えた訳ではなかった。
各地方の有力者たちは日本に亡命し頭山満とうやまみつる内田良平うちだりょうへい宮崎滔天みやざきとうてんといったアジア主義者を通して終結。

1905年
既に武装蜂起しイギリスで勾留された体験を綴った本を発表した事で革命家として世界デビューしていた孫文は、それまで各地方ごとに独立していた革命勢力と亡命の地日本において協力関係を結んだ。
これがのちに伝説となる中国同盟会の発足である。
その後、廖仲愷りょうちゅうがい胡漢民こかんみん陳其美ちんきび汪兆銘おうちょうめい蒋介石しょうかいせきなどもメンバーに加わり、彼らは孫文を支えた。

結集して勢いに乗る革命勢力は現地と日本で連絡を取り幾度となく武装蜂起するが…
いずれも失敗に終わる。

しかし1908年11月15日…
西太后せいたいごうが老衰により死去。
心臓は止まった。

武装蜂起の規模は勢いを得て大きくなる。
それでもやはり何度となく失敗する。
だが…
1911年、中国同盟会から現地に乗り込んだ宋教仁そうきょうじんは武漢の革命勢力、蒋翊武しょうよくぶ率いる文学社と孫武そんぶ率いる共進会をまとめ上げ蜂起計画を練る。
宋教仁は一旦日本に戻り計画の詳細を報告。
あとは宋教仁の帰還を待つのみとなった。
そして準備を着々と進めながら決行日が近づいたある夜…

武器庫の爆薬が暴発し孫武そんぶが重傷。
その為に計画が漏れ蒋翊武しょうよくぶは官憲により襲撃され、何とか逃亡を果たすもトップが不在に。
しかし計画は発動した。
武装蜂起メンバーは既に与えられていた指令を忠実にこなした。
その結果、武漢の武力衝突は初めて革命勢力が清国政府から勝利した記念すべき日となった。
これを武昌起義ぶしょうきぎという。

武漢を治めていたのは湖北新軍であったが総督は形勢不利とみるや直ぐに逃亡し、取り残された将軍はただ1人逃げ遅れた黎元洪れいげんこうのみであった。
しかし黎元洪れいげんこうにとってこの事は幸運であった。
革命派はリーダー不在のため、列国に説明し各地に宣伝し敵軍と交渉出来得る人材が今この瞬間にいなかった。
そこで困ったメンバーはこの黎元洪を傀儡ながらリーダーに据えた。
この無能故に傀儡という理由でトップに座る奇妙な方式はこの後の彼の人生において幾度となく起こる。

宋教仁そうきょうじんも急ぎ現場に駆けつけ、孫文そんぶんはアメリカから各地に打電する。
そして全土に革命の火は波及し全省が清国からの独立を宣言した。
宋教仁は各地の連携をとることに邁進し革命勢力を一つの渦に巻き込もうと腐心した。
しかしここで奇妙な出来事が起こった。
鎮圧軍の主力であった袁世凱えんせいがい率いる北洋軍閥が衝突を和らげたのだ。
果たして…
袁世凱えんせいがいは清国を裏切った。

その頃、革命勢力は象徴となるリーダーを欲していた。
各地で立ち上がった勢力は中国同盟会だけではなかった。
地方軍閥もいれば元変法派の保皇派ほこうはもいた。そんな彼らからすれば宋教仁そうきようじんは各派を繋ぎ止めるに足る逸材とは認めるが主導を任せられるほどの名声を持ち合わせてはいなかった。
かといって傀儡の黎元洪れいげんこうでは看板として余りにも相応しくない。
彼らは纏まりたいが寄る辺なく纏まれない集団であった。

12月25日、既に世界的な名声を得ていた孫文そんぶんは革命の顔として遂に熱狂の地、南京に降り立った。
革命勢力は狂喜乱舞し、孫文は臨時大統領として南京に中華民国を樹立した。

残すは北京を中心とする北部のみ。
しかしその北洋軍閥こそが最大にして最強の敵であった。
まともに打つかれば革命勢力は一撃で粉砕される。
それ程までに北洋軍閥は強大であった。

しかし袁世凱えんせいがいは自身の大統領就任と引き替えに孫文と手を結んだ。
孫文も袁世凱も政治家であった。

ただそのお陰で数多くの犠牲は免れて辛亥革命は成立を迎えたのだ。

宣統帝せんとうていこと愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎは退位し大清帝国はあっけなく崩壊した。
西太后の死後わずか3年の出来事だった。

革命は終結したかにみえた…


【第二章:中華帝国との対立】
主人公:黄興(こうこう)

狂騒の中1人佇む男がいた。
宋教仁そうきょうじんである。
彼は袁世凱えんせいがいを徹底的に警戒した。
そして袁世凱も彼を徹底的に警戒した。
宋教仁は中国同盟会を発展させるべく共和制推進勢力を全てまとめ上げ孫文を理事長に戴き国民党を結成した。

孫文そんぶん宋教仁そうきょうじんは違う。
孫文は大統領制を主張し軍に対しては軍での対抗を目指し、宋教仁は議院内閣制を主張し軍に対しては法での対抗を目指した。

そして国政選挙が行われた。
結果は国民党が半数を占めた。
法により袁世凱率いる北洋軍閥を抑え込めるかにみえた。

しかし袁世凱えんせいがい宋教仁そうきょうじんを暗殺、国民党に解散を命じた。
第二革命の始まりである。

孫文はすぐさま討伐の声を挙げた。
しかし盟友の死を誰よりも嘆き、誰よりも悲しんだ黄興こうこうは法による処分を袁世凱に望んだ。
彼は宋教仁の無念を宋教仁の流儀で全うしようとしたのだ。
辛亥革命時に革命勢力の軍事部門を統括した彼がである。

しかしそんな彼も袁世凱が法の裁きを受け入れる筈もないと見切りを付けると武器を再び持つ事に何ら躊躇はなかった。
打倒袁世凱えんせいがいの狼煙は上がった。

各地で武装蜂起すると辛亥革命の時と同じく革命の炎が勢いづくかと思われた。
しかし北洋軍閥の力は想像を超えていた。
実質軍部中央の支配を長年に渡って担ってきた北洋軍閥の力は全土に波及しており、尽く鎮圧された。
第二革命は完全に失敗し、孫文や黄興といった革命勢力は度を失い日本に亡命した。

日本での彼らの士気は沈みきっていた。
しかし孫文そんぶんは不死身の人であり、不屈の闘志で立ち上がった。
軍には軍を強権には強権を。
孫文は少数精鋭で絶対服従の過激政治結社を孫文麾下において新たに結成する事で、この困難を乗り越えようとした。
しかし黄興こうこうは乗らなかった。
彼が目指すのはお互いが尊重し合う緩やかな連合体であった。

孫文そんぶんは常に海外において遊説し、革命の資金調達、軍事調達、政治工作をし、有力者の支援を取り付け組織を束ねた。
そして日本を拠点に革命の戦略を練り、作戦を伝え、有志を派遣して革命を成し遂げた。
孫文にとって革命とは上流階級の先進的な意思の遂行が庶民を幸せに導くものであった。

しかし黄興こうこうは違った。
確かに彼も日本を拠点に活動した。
しかし彼は革命の戦略を練ると実行部隊を率いて常に現場に赴き活動した。
彼にとって遊説とは庶民に向けてのもので、現地の協力者との結束、敵対者との交渉、軍事調練、思想の普及、そして実際に同志を募り現場を指揮することで革命を成し遂げた。
革命とは庶民の意思の反映であった。

孫文そんぶん黄興こうこうは袂を別った。

孫文は中華革命党を、黄興は欧事研究会へと。

そうした最中、北京では事態が急変していた。
袁世凱えんせいがい、皇帝に即位。
帝国が復活した。
中華帝国の樹立である。

これを受けて沈みきっていた革命勢力は息を吹き返した。
それだけではなく地方軍閥も反袁勢力となり袁世凱の目論見は狂っていく。
第三革命と言われる護国戦争の始まりは雲南より起こった。

その時黄興こうこうはアメリカで慣れない資金調達をしていた。
彼は彼なりに孫文そんぶんを理解しようとした。
しかし日本にいる同志は既に地方軍閥の蔡鍔さいがくが独立を画策しているとの情報を得て積極的に連絡を取り合っていた。

蔡鍔さいがくは元々変法派の重鎮であった梁啓超りょうけいちょうに師事し、その後日本において陸軍士官学校で学ぶと共に革命派の重鎮であった黄興こうこうと交流を結び、雲南省に任官されてからは後に地方軍閥の領袖となる唐継尭とうけいぎょうを従え善政を敷く事で民衆に愛されていた。
その蔡鍔が今は進歩派の梁啓超りょうけいちょう、欧事研究会の李烈鈞りれつきん、雲南軍閥の唐継尭とうけいげょうと連絡を取り合って前任地雲南に舞い戻り、帝政反対の護国軍を名乗り護国戦争を発動したのだ。

最初は苦戦したものの次々と地方軍閥が各省で独立を宣言し出すと南端の雲南省から始まった反袁世凱の動きは徐々に広がりを見せ華南を制しつつあった。
黄興こうこうは急ぎ上海に入る。
そして華南の要衝南京を抑えた。

ここに至って袁世凱えんせいがいは皇帝を廃位し収束を計ろうとしたが、それも虚しく彼は失意のうちに亡くなった。
残された北洋軍閥の領袖たちは情勢を鑑み妥協した。
護国系の黎元洪れいげんこうをその無能さ故に傀儡とし中華民国大総統の座に押し上げる事で解決を試みたのだ。
護国軍はそれを受け入れ中華民国臨時約法に基づき国会の回復を宣言した。
共和制の勝利は世界中に駆け巡った。

もう一度中国はやり直せる。
そう確信し黄興こうこうは意気込んだ。
しかし彼にはもうそんな時間はなかった。
護国戦争で勝利を収めたその時既に、彼の肝臓は病に冒されていたのだ。
3ヶ月後黄興こうこうは亡くなった。

そしてその1ヶ月後、護国戦争を発動した蔡鍔さいがくも結核により亡くなった。

第三革命が終結し革命は終わりを遂げ、中国は新しい時代を迎えた…

【第三章:北洋軍閥との対立】
主人公:孫文(そんぶん)

このまま穏やかな連合体が穏やかに統一に向かえば、おそらく中国には今と全く違う民主主義国家が誕生したであろう。
しかし北洋軍閥は死んだ訳ではなかった。

そして…
崩壊の目は思わぬところから発生した。
護国系の黎元洪れいげんこうと北洋軍閥の段祺瑞たんきずいによる府院の争いは激しさを増していた。
そこで梁元洪れいげんこうはまさかの色気を出した。
段祺瑞だんきずいを罷免。
傀儡が意思を持ち実行に移した。
しかしそれは現実的ではなかった。

段祺瑞は各地の軍閥勢力に呼びかけ地方軍閥勢力がまたもや独立を宣言し始めた。
特に華北においての北洋軍閥五派の力は圧倒的で、即座に北京を制圧し護国派は全て一掃され下野した。
しかし袁世凱えんせいがい亡き後の軍閥の統制は未だ纏まりを見せず段祺瑞の思惑通りには事は進まなかった。
呼びかけた地方軍閥の筆頭とでも言うべき張勲ちょうくんが混乱に乗じて清国皇帝を復辟させたのだ。
慌てた段祺瑞はすぐさま討伐を開始、とはいえ大義名分を得た事で北洋軍閥は堂々と中華民国を睥睨支配する事が出来、制圧後意気揚々と段祺瑞は大総統に就任した。
北洋政府の誕生である。

昔日の革命派は行き場を失った。

しかし日本には孫文そんぶんが未だ健在であった。
孫文は中国南端の広州に赴くと専制政治許すまじと護法運動を展開した。
そうした孫文の処置を巡って北洋二大派閥の安徽派段祺瑞だんきずいと直隷派馮国璋ふうこくしょうの間に亀裂が入り、今度は北洋軍閥五派の足並みが乱れ始めた。
抜きん出た段祺瑞に焦り対抗心を抱く馮国璋の嫉妬心が北洋軍閥の栄華を安泰なものにはしなかった。

間隙をぬって孫文は中華国民党を拡大し中国国民党を結成。
中国共産党もこの頃陳独秀ちんどくしゅう毛沢東もうたくとうによって秘密裏に結成された。

直隷派の領袖馮国璋ふうこくしょうが健在のうちは武力衝突まではいかず平静は保たれてはいたが、馮国璋が病に倒れると事態は急変を告げる。
その後継の曹錕そうこん呉佩孚ごはいふ馮国璋ふうこくしょうの意思を継がんとばかりに派閥の主導権を巡って過激化し、安徽派の段祺瑞だんきずいに宣戦布告した。
安直戦争の始まりである。
血気盛んといえども勢力で劣る直隷派は密かに奉天派の張作霖ちょうさくりんと手を結び、他の二派は沈黙を守った。
その結果、北洋軍閥を長年に渡って牽引していた段祺瑞だんきずいは敗れ失脚した。

しかし勝利したはずの直隷派と奉天派の領袖たちは権力欲に取り憑かれ、蜜月関係は直ぐに終わりを告げた。
奉直戦争の幕開けである。

この北洋軍閥の内紛はこの後入れ替わり立ち替わりなかなか収集がつかずに混迷を極め、北洋軍閥自身の崩壊を招いた。

奉天派の張作霖ちょうさくりんは敵対し失脚させた安徽派の段祺瑞だんきずいと今度は手を結び、国民党の孫文そんぶんをも招き入れ、曹錕そうこん呉佩孚ごはいふの直隷派と武力衝突した。
しかし孫文が中央政界に舞い戻る為とはいえ、軍閥と結託した行為に承服しかねる国民党の陳炯明ちんけいめいが孫文に造反。
更に山西派の馮玉祥ふうぎょくしょうが動き直隷派に加わった事で戦局は直隷派優勢のまま一時停戦状態に。

劣勢に陥った孫文は巻き返しを図るべく今度は共産党の陳独秀ちんどくしゅうに近づき北洋政府に対する同盟、第一次国共合作を密かに結ぶ。

一方直隷派は膠着状態を打開すべく敵対勢力を完全排除するか妥協して協力体制にするかで揺れていた。
意見の相違から曹錕そうこん呉佩孚ごはいふは対立した。
その内紛に乗じて外国の力を借り軍事力を増強した奉天派の張作霖ちょうさくりんが再び段祺瑞だんきずい孫文そんぶんと共に反乱。
今回はあらゆる戦線が拮抗していた。
しかし戦況は動く。
山西派の馮玉祥ふうぎょくしょうが直隷派を裏切り曹錕そうこんを北京において拘束。
更に沈黙を貫いていた最後の派閥山西派の閻錫山えんしゃくざんが加わり直隷派は敗れ、呉佩孚ごはいふは地方へ引き下がった。

同じ過ちはしないと今度は孫文そんぶんが政治の舵を取る事によって政府を運用する機運が民衆に高まっていた。
だが…
既に孫文は癌に冒されて死期は近づきつつあり、孫文は役職を担う事なく中華民国執政に段祺瑞だんきずいが就任し、実権は張作霖ちょうさくりんが掌握した。

北洋軍閥の内紛は終わりを告げ、新しい北洋政府が始まった。
長い内乱に厭戦気分が漂い、これでもう軍閥体制は過去のものとなるだろうと、みんなそう願った。

そうした最中、孫文は療養先の北京で静かに息を引き取った。

孫文は常に蚊帳の外にいた。
譚嗣同たんしどうが変法運動による改革を断行している時も、遠く離れたハワイで1人革命結社を立ち上げ、そして中国の南端香港を拠点に広州で武装蜂起して失敗、欧州に逃れるもすぐに拘束され囚われる。
しかしこの時の体験を元に執筆し革命をアピールした事で世界に革命家として知られ孫文という名前はブランドになった。
黄興こうこうが革命結社を作り中国全土を駆け巡っていた時も、宋教仁そうきょうじんが革命勢力をまとめ上げた時も、蔡鍔さいがくが共和制堅持の為に護国戦争を引き起こした時も…
孫文そんぶんは一人だった。

孫文そんぶんは常に実現不可能な夢を語り。
そして常に敗れた。
しかし孫文は常に受け皿として存在した。
敗れし時も勝つ時も。

孫文そんぶんがいなければ纏まらなかった。
孫文そんぶんがいなければ行き場を失っていた。

孫文そんぶんはやはり革命の父であった。

そして孫文は最期にこう遺言する。

革命なおいまだ成功せず、同志よってすべからく努力すべし

孫文そんぶんの理想はまだ実現していなかったのだ。
孫文は後事を託し革命家孫文として息を引きとった。

革命は続く…

【第四章:北洋政府との対立】
主人公:蒋介石(しょうかいせき)

政権の中枢に躍り出たのは馬賊出身の奉天派領袖張作霖ちょうさくりんであった。
まず執政の段祺瑞だんきずいが失脚した。
北洋軍閥の領袖がまたもやトップに立った事で民衆から反発が起こったが段祺瑞は弾圧という手段でもって対応、その際の虐殺という不手際が国際世論の圧力を招き政界を去った。
そして張作霖と馮玉祥ふうぎょくしょうの対立が始まった。
しかし既に北洋軍閥の内紛は彼らの力を弱体化させており、張作霖は馮玉祥を追い払い大元帥になったものの、その政権は極めて脆弱なもので中国は統一すべき力を誰も持ち合わせない中国地域に成り下がった。

そしてその頃本来なら対峙すべき国民党はというと、こちらも内部分立を招き対抗勢力の程をなしていなかった。
まず軍閥の内紛により統制力を失った北京政府に対し、南端の広州において広州国民政府を樹立。
ここまでは良かった。
しかし共産党の対応をめぐる容共左派ようきょうさは反共右派はんきょううはの対立は孫文死去以降抑えが効かなくなり、遂に容共左派の領袖である廖仲愷りゅうちゅうがいが暗殺された。
そしてそれに伴って反共右派の領袖である胡漢民こかんみんが嫌疑を受け逃亡せざるを得ない事態になり、その余波で軍を掌握していた許崇智きょすうちも責任を取り失脚。
残された指導者は絞られ、政務を束ねる容共左派の汪兆銘おうちょうめいと、軍事を束ねる反共右派の蒋介石しょうかいせきがそれぞれの全権を引き継いだ。
そしてこの二者がまず行った事は…北京政府を討つという協力体制であった。

蒋介石は国民党革命軍を創設。
ソ連の仲介で陳独秀ちんどくしゅう率いる共産党も麾下に加わり国共合作で国民党革命軍は北に向かった。
まず蒋介石は北上して武漢を制圧。
広州から武漢へ汪兆銘を主席とする政府も拠点を移し武漢国民政府となる。
しかしその背景にソ連が関わっている事で欧米列国は警戒し、日本は張作霖率いる北京政府を支援した。

列国の介入は悩みの種であったが蒋介石は構わず国内処理を優先して事を進めた。
しかし華南の要衝上海に軍を進めた時に異変は起こった。
陳独秀が反乱の準備をしていると疑い、蒋介石が共産党を襲撃したのだ。
後にいう上海クーデターである。

この事で国共合作は瓦解、陳独秀は責任を取り降格し、毛沢東もうたくとうが全権を引き継いだ。
共産党の前途は全て毛沢東の手に委ねられた。
また容共左派の政治家で主要を占める武漢国民党政府はこの事で立場を失い、汪兆銘は蒋介石と対立、国民党も分裂してしまった。
更に蒋介石は共産党だけでなくソ連とも決別し南京国民政府を樹立。
ただし今度は決別した事によりアメリカが支持を表明した。
北洋軍閥の内紛時と違って力が落ちた中国では列国の介入が露骨になってきていた。

蒋介石は北洋軍閥と敵対する地方軍閥の力を借りながらではあったがそのまま北伐を続け、張作霖と直接対決に持ち込むや北京を占領した。
北京を落とす頃には武漢国民政府とも再び協力し合い南京国民政府のもとで合流。
遂に軍事力による北洋軍閥の打倒という革命勢力の悲願である北の要衝を陥落させた。

しかし容共左派にも手を切られた毛沢東は絶望の中で路線変更し、共産党の組織運動はこの時を境に変貌していく。
新たなる脅威は静かに鳴動し始めていた。

時代は3人の中国指導者を残した。
蒋介石しょうかいせきは圧倒的な軍事力によって、汪兆銘おうちょうめいは現実的な政治展開によって、毛沢東もうたくとうは強力な思想扇動によって、それぞれ中国を統制しようと目指した。

果たして中国は蒋介石の北伐により一定の成果を上げ国内の再統一は形の上では成された。

中国に政府はただ一つ。

しかし残された指導者は未だ3人いた…

【第五章:日本軍との対立】
主人公:汪兆銘(おうちょうめい)

満洲事変勃発。
張作霖ちょうさくりんは奉天に帰るも日本は彼を見限り爆死させた。
馬賊の夢は儚くも消えた。
そして日本軍による軍事制圧により清国の故地満洲で清国最期の皇帝溥儀ふぎを復位させ、五族共和を理想に掲げる傀儡国家満洲帝国が独立を果たした。
ひとまず蒋介石しょうかいせきは黙認した。

蒋介石が取り掛かるべきは国内の政権基盤を固める事であった。
それは地方軍閥の解体である。
中国の再統一を果たしたとはいえ、やはり地方軍閥の力無くしては未だ勝利を得られなかった蒋介石としては影響力を徹底的に排除する必要が生じたのだ。
蒋介石は相次ぐ内紛による中国の混乱に止めを刺すべく地方軍閥との武力衝突に入った。
曾てと違い国民党の武装組織は地方軍閥を悉く粉砕した。

しかし多くの時間を費やした代償に、今度は毛沢東もうたくとう率いる共産党が地方より拡大を広げ、北京とは東西に位置する北西地区江西省に中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立。
庶民の困窮を救うため立ち上がるという姿勢を貫く事で太平天国や義和団のように庶民の受け皿となり共産党は広がりを見せた。

ここで蒋介石は最後の…本人にとっては最後の仕上げとして共産党壊滅に向けての軍を進めた。
共産党は難なく敗れ拠点は失われた。
雲散霧消した共産党勢力を見て蒋介石は勝利を確信した。
しかしそれはとんでもない間違いだった事に後で気づく。
全ては毛沢東もうたくとうの作戦だった。
そうゲリラ戦争の始まりであったのだ。

そして未だどちらが仕掛けたのか歴史的な証拠が見つかっていない謎の武力衝突が北京の盧溝橋ろこうきょうで起こる。
日本軍と国民党革命軍が盧溝橋で対峙していたのだが、そこで1発の銃声が聞こえたのだ。
未だに誰が撃ったかは判然としていない。
このどちらが撃ったかは未だ原因不明の銃弾1発によって銃撃戦が繰り広げられた。
これが盧溝橋事件である。
そしてこの衝突が切っ掛けとなり日中戦争が始まる。

焦ったのは蒋介石で、これにより共産党勢力撲滅に専念出来なくなり固まりかけた中国は再び不安定な状態になっていく。

そこで満洲事変を起こした将軍石原莞爾いしわらかんじは動いた。
蒋介石と隠密理に休戦協定を結び日中戦争に区切りをつけ、来るべき日米戦争に全力を注げるように備えようと。
おそらく蒋介石も乗ってくる。
事実蒋介石は日本との戦争回避の為の休戦協定を模索していた。
もし会談が成功に終われば共産党撲滅に力を注いで一つにまとまった中国と手を携えあって大東亜の力でアメリカを討てるだろうというプランが石原の考えだった。

しかし「国民党政府は相手にせず」、そう発言した時の総理近衛文麿このえふみまろの一言によって全ては収束を告げる。
近衛はおそらく直ぐに日本軍が制圧出来ると踏んでいたのであろう。

しかし日中戦争は泥沼にはまっていく。

日本軍の強さは軍閥の比ではなく、当初は国共内戦を優先させていた蒋介石も方針転換せざるを得なかった…得なかったが何としても国内を纏めてから日本軍と立ち向かいたかった彼は一つの過ちを犯した。
蒋介石は西安に交渉に赴き共産党共鳴者に捕らえられたのだ。
そして共産党幹部の周恩来しゅうおんらいと会談し方針の大転換が起き第二次国共合作が始まった。
蒋介石は毛沢東と手を結ばざるを得なかった。
ただしここより日本軍の大誤算が始まったのであった。

とはいえ国民党の軍はことごとく敗れ去り、日本軍は南京を占領した。
ここで汪兆銘おうちょうめいが動く。
彼は一旦政権を蒋介石に任せ国外で活動していたが、中国自体の崩壊が始まりつつある事を予感し舞い戻る事を決意したのだ。
汪兆銘おうちょうめいは日本と交渉を開始した。
そして新政府、南京国民政府を樹立した。

彼は毛沢東や蒋介石と違って極めてリアリストだった。
容共左派の領袖であった彼は当時不平分子であった共産党を取り入れる事で国内の安定を図った。
そして今は不平分子に溢れて反乱が各地に満ち溢れる事を憂いて反共親日に傾いた。
彼の理念は現実を常に肯定して始まった。
傀儡と言われようとも屈辱と言われようとも、彼は国が亡くなる事だけは避けたかったのだ。
戦後の研究によって彼が日本の思うようにはならなかった事は徐々に公開が始まっている。
彼は現実を受け入れて政権を担った。

南京を追われた蒋介石は重慶に新たな政府を作った。
ここに至って日本が支援する汪兆銘おうちょうめい南京政府、アメリカが支援する蒋介石しょうかいせき重慶政府、ソ連が支援する毛沢東もうたくとう共産党の三すくみの状況を迎えた。

しかし日本軍はここで戸惑いを見せた。
一蹴出来ると確信していた中国戦線が予想以上に手間取った。
蒋介石率いる国民党革命軍は日本としぶとく戦った。
これは日本軍にとっては誤算であった。
しかし想定内ではあった。
問題は毛沢東率いる人民解放軍であった。
毛沢東は蒋介石と協力しながら時に日本軍とも内通し蒋介石と衝突する様けしかけた。
そして日本軍の後背を討ち撹乱し蒋介石を助けもした。
白か黒か結着が付かず双方が消耗し弱体化するまで毛沢東は待った。
毛沢東の灰色の罠に両陣営は完全に嵌った。
日本軍は人民解放軍を全く相手にしていなかったし、人民解放軍も抗戦そこそこに直ぐ身を隠した。
しかし壊滅しようとしてもその壊滅させる軍隊が何処かへ直ぐに消えてしまうのだ。
日本軍は無駄に時間を労した。

そして日本は最悪の選択をした。
日中戦争を続けながらアメリカと先端を開いたのだ。
ドイツはヨーロッパを進撃し世界中で戦争が起こった。
第二次世界大戦は始まった。
中国はある意味では救われた。

第二次世界大戦中、三すくみの状態は結局変わらなかった。
灰色の泥沼に嵌り泥沼から抜け出せないまま終わった。

そして第二次世界大戦は終わり汪兆銘おうちょうめいが担っていた南京国民政府は日本の敗戦とともに解体された。
しかし既に彼の姿はそこにはなかった。
半年ほど前に腫瘍が悪化して闘病生活ののち亡くなっていた。
汪兆銘の葬儀は南京で営まれ市民は哀悼の意を表し敬愛されて最期を迎えた。
しかし第二次世界大戦後は国を売ったとして国賊として唾を吐きつけられる存在となる。
亡国を防ぐために敢えていばらの道を決した男はその生涯を理解されぬまま今も墓標に眠る。

中国は香港を除き全ての領土を取り戻した。

国民党でもなく…共産党でもなく…中国としての勝利を確かにおさめたのだ。

【第六章:共産党との対立】
主人公:蒋介石(しょうかいせき)

国民党が正式な中華国民政府のまま終戦に至るも、共同戦線を張っていた共産党と国民党の双方は双十協定そうじゅうきょうていにおいて今後の運営も平和理に協力していくと約束した。
しかし当然ながら蒋介石しょうかいせき毛沢東もうたくとうは対立した。
直ぐに協定は撤回され第二次国共内戦が始まった。
本来ならここで正規軍である国民党革命軍は圧倒的に有利なはずが、日本との戦争で疲弊した軍の力は著しく減退していた。
打って変わって共産党軍は毛沢東の指令により日本との戦闘を避け続け、兵力を温存していた結果第二次世界大戦が終わる頃には戦力差は逆転していた。
更に農村主体の地方に共産党の思想と組織を普及させる事でじわじわとその効果が現れていた。
蒋介石は持久戦になればなるほど追い詰められ、台湾へ退く事になる。

軍の力で中国を統制しようとした男が戦争で敗れてしまっては、もう救いようがなかった。
再起の目は摘まれた。
蒋介石しょうかいせきはどこで間違ったのか。
彼の力なくして中国の再統一はなかった。
それだけは間違いない。
しかし蒋介石は宰相の器では無かった。
彼は軍事において突出した働きを見せた。
しかし軍事以外の事は…もっと言えば政治に関しては毛沢東に完全に劣っていた。
軍事的にいくら勝利を収めようが大衆の心情を理解し得ない彼は大衆の象徴にはなり得なかったのだ。
蒋介石しょうかいせきの悲運は汪兆銘おうちょうめいと手を切った時に訪れ、しかしそれを理解する事は終生なかった。

中国は毛沢東が支配した。

【終章:アメリカとの対立】
主人公:毛沢東(もうたくとう) 

毛沢東もうたくとうは中華人民共和国を樹立し、蒋介石しょうかいせきは台湾国民政府を樹立。
当初毛沢東は人民民主主義国家を標榜し社会主義からは少し距離を取った。
毛沢東が第二次世界大戦中にやってきた農村に対する心証はまさに正しく、民衆は緩やかな政策に信頼は高まった。
よって国内の反動分子は抑え込めた。
しかし未だにアメリカやソ連の影響は強く侮りがたかった。
そこで朝鮮戦争が勃発。
朝鮮半島を舞台にアメリカと全面戦争に入った。
結果はともかく、この事で国内でのアメリカの影響は削いだ。
それだけで毛沢東は満足した。
そして朝鮮戦争の休戦協定前に次なるステップを毛沢東は歩み出す。
急速なる社会主義への転換で国内を締め上げたのだ。
そして改革を次々に断行。
ソ連との蜜月も終わり、毛沢東の独裁は始まった。

おそらく毛沢東もうたくとうという人は産まれた時から独裁者であったろう。
しかしその力の源泉は大衆の願いより生まれ出た、と他人には見えた。
だからこそカリスマとなり得た。
しかし本来は自身の胎内に宿る破壊的な欲望をエネルギーと化し、そのまま発散したに過ぎないであろう事は彼の後半生を眺めれば容易に想像がつく。

毛沢東もうたくとうが天下の人々を裏切る事があっても、天下の人々が毛沢東もうたくとうを裏切る事は誰一人として許さない。
彼は権力の座に収まるべくして収まった。

その後反乱分子を大量に虐殺したり文化大革命で人災を生じさせたりもしたが、彼の権威は一つも揺るがなかった。

彼は中国が4000年かけて産み出した巨人であった。

1975年蒋介石しょうかいせき死去。
1976年毛沢東もうたくとう死去。

二人の死によって革命による物語は終わりを告げた。

2003年のことである。
1枚の写真が発見された。
孫文そんぶんが日本亡命時に革命派を集めて中国同盟会を設立した時期の写真である。
若き日の孫文をはじめ、黄興こうこう宋教仁そうきょうじんといった初期メンバーだけでなく蒋介石しょうかいせき汪兆銘おうちょうめい、士官学校で日本に来ていた蔡鍔さいがくや一時的に入会した毛沢東もうたくとうも写っている一枚の写真だ。
この写真は奇跡の一枚として研究者たちを一時騒然とさせたが、その後加工を施された偽物だと判明するや一気に忘れ去られた。

彼らが同時期に同じ場所に存在する事は残念ながら無かった、と思われる。
しかし同時期に亡命や留学で東京にいた瞬間は確かにあった。
彼らは方向性は違えども同じ時代に同じような情熱で革命に向かって疾り抜けた。

彼らは革命に懸け、ある者は斃れ、ある者は生きながらえた。
革命の火は常に誰かが灯し、絶え間なく次から次へと手渡し、暗闇の中伝えていった。

いつかこの夜が明けるまで。

そう願い灯し続けた。

そして民衆という太陽の光が差し、彼らは役割を終えた。

夜は明けた。

もう照らす必要はないのだ。
再び夜が訪れるまでは…

孫文そんぶんの夢は終わりを告げた。

・・・

夢は終わった。


革命いまだならず、同志なおすべからく努力すべし。

革命尚未成功 同志仍湏努力

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