桂小五郎の"愛され力"「桂小五郎TERAKOYA〜愛と死を見つめて〜」(2018.11.17)

池田屋から屋根伝いに逃げたとか
潜伏中に13歳の子と結婚したとか

そんな俗説から
わたしは桂小五郎という男が
よくわからなかった。

祇園の美人芸妓の幾松が
危険を冒してまで守ろうとした、
そこまで惚れる理由も謎だった。

その謎を解くために11月17日
「桂小五郎TERAKOYA」に参加した。

司馬遼太郎は彼を「天秤」と評したという。
今風に言えば、バランサーということか。

小五郎は吉田松陰を師に持つも
その苛烈さは受け継がず、
血気にはやる若者をいさめる役を担った。

また、当時、最先端の情報を得ていた
幕臣の江川英龍や中島三郎助と親交を結んだ。

実は、彼には強い思想というものがない。

「いま、この時、何が必要か」

それのみを真っ直ぐに考え、
水戸が世を破り、長州が事を成す
「成破の盟約」という密約を結び、
藩主を説得して藩論を変えさせ、
宿敵薩摩と薩長同盟を結んだ。

彼は不思議と人に好かれた。

師である吉田松陰も
自分の亡骸と死後を彼に託した。

藩の混乱を収めるのは小五郎しかいないと
潜伏場所から呼び戻された。

桂小五郎は
「後処理を任された中間管理職」
というイメージがわたしにはあって、
あんまり魅力を感じていなかった。

が、ここぞという時に求められ、
昨日の敵と友となれる
不思議な愛され力がある人だとわかった。

小五郎は病弱な少年だった。

それ故に跡取りとされず、
隣の家の末期養子となった。

さらに、次々と身内を亡くし、
あまりの辛さに「出家する!」
とまで言いだしていた。

彼は愛に飢えていた。

しかし、本当は、誰よりも家族に守られ、
愛されていた存在だった。

姉の夫である義兄は、彼に財産を遺した。
そのおかげで、当時ではめずらしい
私費での江戸留学を果たした。

そして、江戸屈指の剣術道場で1年で塾頭となり、
師匠に頼んで幕府高官とのコネクションを作った。

繊細で真っ直ぐ、屈託のない人。
自分は愛される存在だと、
潜在的に感じとっていたように思う。

明治になり、妻となった幾松は
ヨーロッパにいた小五郎に
こんな手紙を送る。

「どうぞ、どうぞ何かよいものがありましたら、たんと、たんと、たんと、たんと、たんと、お送りくださいませ」

愛する女性にも屈託なく接していたからこそ
幾松もかわいく甘えられたのかもしれない。

逃げの小五郎といわれた男。

この男は生かさねばならない。
その仲間たちの想いが、
彼を明治まで生きさせたのではないだろうか。

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