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感動と笑いとハテナな夜「れきしことばパフォーマンス2019」

今年もついにこの日がやってきました。

今回はベテラン中堅の二人、りょーうんとりょーたろー、
初出場のしおりちゃん、高野ちゃん、たけっち、
そしてTERAKOYAの先生であるチャンプの6人での戦い。

純粋におもしろさで投票する人、
ある思惑(?)を持って投票する人、
毎年投票する側も頭を悩ませるイベント、
さてさて今年はどうなる?

▪︎一回戦。圧巻の10分間プレゼン、ここにあり!

事前にそれぞれが考えた「れきしことば」と
その言葉にまつわる人物のプレゼンの合算で競う一回戦。

やはり注目は唯一のTERAKOYAティーチャー、チャンプ。

時代は昭和。れきしことばは
「僕は忘れない。
青空と、祖国を思うあなたのことを。」

最初にこのれきしことばを見た時、正直、
あんまりキャッチーじゃないなー、
戦争にまつわる人物なのかなー、なんて思っていた。

が、想像を遥かに超えた思いもかけない人物だった。
その名はフレッド和田。

彼はロサンゼルスの日系二世、
苦労して実業家となり、スーパーマーケットの経営をしていた。

時は1949年、
ロサンゼルスで全米水泳選手権が開催。

戦争終結から4年、アメリカではまだ反日感情が強く、
日系人はジャップと呼ばれ、出入り禁止の店もあった。
そのため日本人選手6名を泊めてくれるところもない。

その窮状を耳にして自宅を宿泊所として提供したのが
フレッド和田だ。

この大会で日本選手たちは華々しい成績を残す。
和田家での白米のもてなしも貢献したに違いない。

礼を言う選手たちに和田は
「僕たちこそ、ありがとう。君たちのおかげで、
ジャップからジャパニーズになれた。
本当にありがとう。」と返した。

和田は大河ドラマ「いだてん」には登場しなかったが、
これをきっかけに主人公、まーちゃんとの交流が始まる。

その後日本は1964年のオリンピックに名乗りを上げる。
しかし下馬評では最下位、かなり厳しい状況。
そこで日本は和田に助けを求める。

彼は快く引き受け、しかも「東京にオリンピックが開かれるなら、
自分の店などどうなってもええ思うとる」とまで言っている。

和田は南米からの票を集めるため、妻の正子とともに
私費でメキシコ、キューバ、ブラジルを歴訪。

日本はIOCの1回目の投票で過半数を獲得、
圧倒的な支持で東京開催が決定した。

そして迎えた1964年10月10日、
「日本はこれで一等国になったのや。
戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。
日本人は皆、よう頑張った」

和田の偉業はこれだけではない。

訪問したメキシコとの約束を果たすために尽力、
1968年のメキシコオリンピックを実現させる。

さらに1984年、ロサンゼルスオリンピックの招致・開催にも協力する。

2001年2月21日フレッド和田、永眠。享年93。

そして2回目の東京オリンピックが決定した約1ヶ月後、
妻正子が静かに息を引き取る。
享年100。

人物の魅力×物語×れきしことば
すべてが見事なまでに掛け算になっていた10分間、
チャンプ先生の圧巻のプレゼンでした。

▪︎中堅の星vs.天才TERAKOYAティーチャー 決勝のゆくえは!?

決勝はプレゼン票で圧倒したチャンプと
中堅の星!りょーうん。
テーマはフリー。

先行はりょーうん、れきしことばは
「酒食に溺れた8665日の記録」

その記録とは元禄時代に書かれた「文左衛門の日記」

赤穂浪士と同時期に生きた尾張藩士の文左衛門は
とにかくのんだくれる毎日。

「同僚と飲み比べした帰り道。二人で城下を全力疾走した。
死ぬほど吐いた」などなど、
現代の会社員でもそんなアホなことしないよね、というエピソード満載。

さらに妻と妾を同居させ、しかもそれを2回もやらかし、
家出しちゃう。もうどうしようもない。

ついには酒の飲み過ぎで45歳で死去。
日記を書いた期間26歳8ヶ月。
ある意味、自分を貫き駆け抜けた人生、と言えなくもないか。

歴史を知らなくても楽しめる、爆笑の10分間でした。

続いてチャンプ、れきしことばは
「嘘、その思い、歴史を紡ぎ未来へ。」

時代は佐幕。いや、佐幕は時代じゃないよチャンプ。
佐幕おじさんの異名をとる、チャンプの語りの舞台は
幕末の越後長岡藩。

河井継之助と同じ家老の山本帯刀(たてわき)
・・・の家臣、渡辺豹吉が主人公。

24歳の若き家老・山本は戊辰戦争で勇敢に戦うも
渡辺とともに新政府軍に捕らえられる。

当時の慣わしでは、家来が先に死罪になるところ、
渡辺は「自分は武士ではない、単なる下僕だ」と言い、
新政府軍から蔑まれる。

しかし、主人の亡骸を埋めたのち、
「長い間、お待たせした。私は武士である」と名乗り、死を願い出る。
新政府軍は彼の忠義を認めながらも斬首、享年27。

明治の長岡は苦難を強いられ、山本家も途絶えた。
その後、大正時代になり山本家の再興が叶うことになった。

養子に入ったのは高野五十六、
のちの連合艦隊司令長官・山本五十六である。

テンポ良く笑いの渦に巻き込んだりょーうんか、
”泣かせ”のチャンプか・・・

優勝は中堅の星!りょーうん!!

レキシズルのプレゼンターには天才と呼ばれる人もいて、
チャンプも間違いなくその一人。
りょーうんは地道にプレゼンを重ねてきた努力の人、
それが報われた瞬間。

みんな全力出してがんばった。
でも”ハテナ”がつくプレゼンもあった。

みんなを楽しませるって本当に難しい。
”歴史をポップに。”って本当に奥が深い。

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