幕末の真実とは「奥羽越列藩同盟TERAKOYA」(2018.8.18)

「奥羽越列藩同盟」をご存知だろうか。

昨夜の歴史TERAKOYAのテーマであり、
つまりは幕末の敗者の歴史である。

「薩長同盟なら知ってるよ、
薩摩と長州の軍事同盟でしょ?」

それに対し、奥羽越列藩同盟は、
陸奥、出羽(=東北)+越後の31藩によって
2つの大きな目的のために結成されたものだ。

一つは会津と庄内を守るため
もう一つは東北発の新しい政府をつくるため。

幕末というと、
薩長側が「新」、幕府側が「旧」として
語られることが多いけど、
知れば知るほど逆だったとわかる。

巧みな交渉で日米和親条約と
日米修好通商条約を結んだ幕府。

しかし、時の孝明天皇が
外国嫌いだったことを理由に、
長州など西国の浪士たちが、
京都で攘夷!と叫び、
数多くの幕府側の人々を暗殺した。

テロ地帯と化した京都の治安を担ったのが
会津であり、同じく江戸を守ったのが庄内だ。

ところが、時代の風は薩長に味方する。

孝明天皇からの信頼が厚かった会津は、
天皇が亡くなることで力を失い、
薩長が勝手に作った錦の御旗を前に
朝敵にされてしまう。

そして庄内は、せごどんが命令した
江戸での放火、掠奪、暴行に憤り、
薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちしたことで、
逆に、朝敵とされてしまうのだ。

薩長は、政権を朝廷に返し
のらりくらりと逃げる徳川慶喜を
殺せなかったために、
会津と庄内に矛先を向けた。

追い詰められる会津と庄内。

そこに「会津を討て」と薩長に命令されるも、
会津を守るために奮闘したのが
仙台藩と米沢藩である。

そして、その二藩の意を伝えるために
会津に向かったのが
仙台藩士 玉虫左太夫。

彼がいなければ奥羽越列藩同盟は
実現しなかったであろうことから、
“東北の坂本龍馬”ともいわれる男だ。

玉虫は24歳で妻を亡くしたあと、
学問への情熱を抑えきれず脱藩する。

そして、江戸でフリーターのような状態から
なんとか林家の下男として潜り込む。

林家とは今の東大総長のような役目を
代々担う家。

そこで、日米和親条約を実現させた林復斎と
復斎の甥で日米修好通商条約の交渉役
岩瀬忠震と出会う。

二人とも交渉の巧みさで
ペリーやハリスを唸らせた人物である。

玉虫は、その林家で学問の才能を見出され
塾長にまで抜擢、
日米修好通商条約を批准するため
アメリカに渡ることになる。

船の中で彼は、
船長が我が子を思うように
亡くなった船員を悼む姿に、
日本にはない、上下を超えた関係性に感動し、
共和制という政治の仕組みに
日本の将来を夢見て帰国する。

そして、 奥羽越列藩同盟による
理想の国づくりの実現に奔走する。

しかし、薩長軍との圧倒的な武器の差で
最も重要な砦である白河を突破され、
同盟藩は次々に寝返りや降伏。

会津、庄内も敗れ、奥羽越列藩同盟は、
わずか5ヶ月で崩壊してしまう。

薩長派となった仙台藩は玉虫を捕らえ、
薩長に媚を売るために切腹を命じる。

享年47。

幕臣の榎本武揚と箱館に渡り、
共和制の国をつくる約束をしていたという。

新しい国づくりを夢見た無念の死だった。

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今から50年前
東京の五日市からある書物が発見された。

「五日市憲法」と呼ばれる
明治14年に書かれた憲法草案だ。

国民の権利が記され、
明治憲法より現在の憲法に近いという。

作者は元仙台藩士。
仙台藩校で玉虫から教えを受けた一人だ。

「白河以北一山百文」
という言葉がある。

「白河の関所より北の土地は、
一山で百文にしかならない荒れ地ばかり」
という意味で、
戊辰戦争後の東北を指す、
薩長による侮蔑表現だ。

しかし、ここに、国民の権利を守り、
共和制による政治を目指した
明治政府よりも開かれた国をつくろうとした
東北人たちがいた。

幕臣好き佐幕派のプレゼンターのおかげで
また新たな歴史の一面を知ることができた
いい夜だった。

↓奥羽越列藩同盟のクレド
甲子園の優勝旗が白河の関を越えるのは
いつになるだろうか
(北海道に飛び越えたけどね)

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