見出し画像

馬琴と滝沢家の物語「滝沢馬琴」(レキシズルスペシャル 2020.7.29)

プレゼンターは、りょーうん。
地道にプレゼンを重ね、昨年の「れきしことば」で優勝したレキシズルきっての努力の人。

今回の主人公は滝沢馬琴。
江戸の後半、江戸文化最盛期に活躍した作家で、代表的な作品は「南総里見八犬伝」。

戦国時代に千葉にあった里見家の御家再興の物語で完結するまでに28年。
途中で馬琴が失明し、後半は息子の嫁が代筆した。

馬琴自身は滝沢馬琴と名乗ったことはなく、「曲亭馬琴」が正式な名前だそうだが、今回はあえて”滝沢”馬琴としたことに理由があるらしい。

プレゼンター曰く、馬琴は「真面目な努力家で説明好きな歴史オタク」

特に中国史が好きで、難しい漢字が大好き。
そのため、のちに代筆を頼むときに文字の説明で地獄を見ることに。

女中に「君は雑だから、これを読むといいよ」と渡したのは万葉集。
「わたしには難しい・・・」という女中に「じゃあ、説明してあげよう!」と自分の気が済むまで相手を拘束。
が、決して説明が上手なわけではないという、ちょっと面倒くさい人だった。

◼︎転職、ニート、な青少年時代
馬琴は名門の旗本の家臣の子として生まれ、二人の兄と、二人の妹がいた。

父は財政を立て直したやり手で、俳句好き、犬好き、酒好き。
馬琴も父の影響で7歳で俳句を詠んだ。

ところが酒が原因で父が死去。
上の兄が跡を継ぐも、給料を半分にされたため転職。
下の兄も主君を見限って転職してしまう。

残された馬琴は10歳で家督相続し、母と妹を養う立場に。
2年後には母が二人の妹を連れ、上の兄の元に行ってしまったため、12歳でひとりぼっち。

しかも主君は”8歳の少年でキレやすいパワハラ上司”
大好きな本を読んでストレス発散し2年間我慢するも、とうとう耐えきれず・・・

1780年10月14日、「木がらしに 思ひたちけり 神の旅」という、神無月と”神の旅”をかけた俳句を障子に書き残し、職場から脱走してしまう。

その後、優しい兄の元で3年間ニート生活を送り、別の旗本に再就職するも、またもや1年経たずに退職、無職になり友人宅を泊まり歩く。

さらに、兄二人も無職になったタイミングで母が亡くなり、下の兄も亡くなって意気消沈した馬琴は遊郭に通いつめ、性病(梅毒)にまでなってしまうという、ついてなさすぎ馬琴青年。

◼︎作家への道
転職を繰り返し「俺、侍に向いてないのかも・・・」とようやく気づき、医者、儒学者、俳諧師 狂歌師、どれか当たるだろうとやってみるも全部ダメ。

ところが知人から、とある人物を紹介してもらったことで作家への道を歩むことになる。

その人物こそ山東京伝。
江戸一番の売れっ子作家で、今でいうギャグまんが家。
日本で初めて”割り勘”を提案した人でもあったそう。

当時は作家だけで生きるのは難しく、弟子になるのは断られたものの、「また遊びにおいで。書いてもの見てあげるから」と優しい言葉をかけてもらい、「今は無職だけど、ぜったい作家になってやる!」と馬琴は決意し、兄の元から独立する。

さて、富岡八幡宮の近く、深川に家を構えた馬琴。

山東京伝から、喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した版元(出版業者)で名プロデューサーの蔦屋重三郎を紹介してもらい、彼の店、”TSUTAYA”で働き始める。

ところがまたまた1年で辞めてしまう馬琴。

すぐに仕事を辞めてしまう”逃げ癖”を心配した蔦屋が縁談を持ってきたのだが、断りづらくて辞めてしまったのだ。

相手は吉原で遊郭を営む人の娘。
馬琴は日記に「遊郭は人身売買の巣窟だ」と書いており、そんな家の娘との結婚は嫌、という理由。

えと、君、遊郭通いつめて性病までもらったよね・・・。

蔦屋重三郎、ますます馬琴に身を固めさせねばと思い、次に持ってきた縁談が、馬琴より3歳年上でバツイチで短気でキレやすく美人でもない。

なぜかこの縁談はすぐに承諾した馬琴。
妻のお百(ひゃく)との仲はよく、息子と娘三人をもうける。

馬琴は「今までの生き方を反省し、家族のために決意を新たにする」と日記に書き、改心する。

そして曲亭馬琴というペンネームで作家人生をスタート。
山東京伝も、自分の弟子として売り出しOKと後押ししてくれた。

◼︎歴史作家 曲亭馬琴 誕生
ところが、お笑い系、下ネタ系の本は全部禁止!と幕府の出版規制が始まり、山東京伝は自宅謹慎、蔦屋重三郎も財産の半分を没収。

それをきっかけに、馬琴は歴史小説家として再出発することになる。

最初の本はそこそこ売れたものの、納得いかない馬琴。
中国の三国志演義や西遊記みたいなスケールの大きい小説が書きたい・・・

日本にも平家物語や太平記などがあるが、馬琴に言わせると、結局、武士たちのケンカ物語。

西遊記なんて、主人公は猿と豚とカッパ。
スケールが大きい上に自由度がケタ違い。

でも、日本にはそんな本がない。なら、俺が書いてやる!
そして完成させたのが「椿説弓張月(ちんせつゆめはりづき)」

主人公は源為朝。
日本人になじみのある武士を主人公に
・一発の弓矢で船を沈める
・ピンチになったら化け物が助けに来る
・最終的に琉球の王様になる
というぶっとんだ話。

挿絵は葛飾北斎。
93回引越しした北斎と、転職12回の馬琴。
「こいつには同じにおいを感じる・・・」とウマが合ったそうだ。

しかしお互いブライドが高く、構図をめぐって大げんか。
右と言ったら左、前と言ったら背中と、北斎は馬琴の指示と必ず逆のことをする。

ならば初めから逆の指示をすればいい!と馬琴は思いつき、これが大成功。

ある意味バッチリはまったコンビだったが、しばらくして解消。
絵の構図をめぐってケンカ別れしたともいわれるが、実際はお互いの名声とともに依頼料が上がり、出版元が嫌がったのではという説もある。

◼︎八犬伝と滝沢家
馬琴の代表作「南総里見八犬伝」主人公には
・苗字に犬の字がついている
・主人公全員が孤児
という共通点がある。

馬琴も12歳でひとりぼっちになった過去を持ち、主人公に自分を重ねて合わせていたのだ。

そして、八犬伝は大ヒット。

校正を担当していたのは、松前藩江戸屋敷の医師であった息子だったが、彼は出勤途中でお腹が痛くて早退してしまうほど、相当な病弱。
しかし、自分が満身創痍なだけに患者の気持ちもわかるのか、名医として藩医のトップにまで登り詰め、侍にも取り立てられた。

息子に武家としての滝沢家の再興を託していた馬琴は嬉しかっただろう。

そして息子は紀州藩藩医の娘、お路と結婚。
子供にも恵まれ幸せ・・・と思いきや、この息子、馬琴を尊敬する反面、劣等感もかかえ、妻・お路や母親に八つ当たり、馬琴の妻は馬琴とお路にキレる、馬琴は息子に強く言えない・・・
馬琴はこの状態を日記に”内乱”と書いている。

38歳で息子が病死すると、8歳の孫をめぐり馬琴と妻・お百が対立。
「お路は実家に帰して私達で育てましょう」というお百に馬琴は猛反対。
この時、お百72歳、馬琴68歳。
自分と同じ経験を孫にさせたくなかったのかもしれない。

そんなストレスや深夜までの執筆で馬琴は75歳で失明、お路が代筆することに。
しかし馬琴の言葉が難しい上に、歯が抜けていて正確に聞き取ることも難しい。
が、お路は我慢強く馬琴につきあい、数ヶ月で難解な漢字も習得し、馬琴の筆跡を真似た執筆ができるまでに。

この頃、八犬伝にキーパーソンとなる人物が登場。
犬江親兵衛という9歳の少年で、8人の中で一番強い物語後半の主人公。

馬琴の孫が父親を失ったのは8歳。
大活躍させることで孫の成長を願ったのではといわれている。

馬琴が構想・執筆、息子が校正、お路が代筆を担当した八犬伝は、馬琴が家族(滝沢家)と一緒に作った小説なのだ。

1842年正月、「南総里見八犬伝」完結。
あと半年遅れていたら、再び幕府の規制で出版できなかったかもしれない。

6年後に馬琴は82歳の生涯を閉じる。

馬琴が八犬伝の完結にこだわった理由とは・・・
里見家の御家再興=武家・滝沢家の御家再興を重ねた、馬琴の”願掛け”だったのでは、とプレゼンターは言う。

馬琴は回顧録で「小説は心を師として作るもの」と書いている。

ひとりぽっちになった経験を、主人公の設定に織り込んで、
孫の成長を願い、物語に重ね、母の供養ために視力を失ったあとも物語を書き続ける。

八犬伝は家族を想う馬琴の心だった。

”御家再興”は現代のわたしたちには、あまりない感覚だけど、願望の叶え方は一つじゃないこと、人生に無駄なことなんて一つもないこと、紆余曲折あっても愛する人たちを想って生きるってすてきなこと、そんなことを学べた、いい夜だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?