運命に翻弄されながらも、抗い戦い続けた男「武田勝頼TERAKOYA」(2019.5.11)

偉大な父の跡を継ぐことは、
相当のプレッシャーだったろう。
しかも彼は、父から愛情も厳しさも
ほとんど与えられず育った。

2019.5.11 武田勝頼TERAKOYA
そこでわたしたちは、
彼の本当の姿を知ることになる。

武田勝頼といえば、
「長篠の戦いで、織田・徳川連合軍の
鉄砲隊を侮り、結果、武田家を滅亡させた、
以上終わり。」
というイメージではないだろうか。

ところが、勝頼を「油断ならぬ敵」
「弱敵と侮ってはいけない」
と評した人物がいる。

他ならぬ、織田信長である。

第一部は「運命の長篠」と題し、
長篠の戦いの真実が語られた。

武田家を継いだ時、
勝頼は家臣にこんな約束をしている。
一、あなたを悪く言う者がいたとしても、
できる限り事実確認をします
一、今後忠節を尽くしたら手厚く待遇します
一、疎遠な家臣でも粗末に扱いません

当たり前すぎる内容ではないだろうか。

裏を返せば、それだけ勝頼が
家臣に信頼されておらず、
家中の取りまとめに苦心していたということだ。

家督を継いで、
わずか二年後に長篠の戦いが起こる。

実は、長篠の戦いで両軍の
鉄砲隊の兵力は五分五分だった。
しかも、武田軍は巧みに鉄砲隊を用い、
織田・徳川軍を追い詰めた。

しかし、誤った情報が伝達されたこと、
織田・徳川軍が武田の倍の兵力だったことから、
武田軍は大敗してしまう。

戦のあと、信長は言う
「近年の鬱憤を晴らすことができた」と。
何に対する鬱憤だったのか。

その謎を解くには、
信玄の時代にさかのぼる必要がある。

第二部「父・信玄」

勝頼は、信玄と諏方(すわ)御料人の
間に生まれた。
信玄にとっては四男であり、
跡を継ぐ立場ではなかった。

諏方御料人は、
信玄が滅ぼした諏方氏の姫であり、
勝頼は諏方氏の後継者として育てられた。
そのため、勝頼は息子たちで唯一
「信」の字がない。

ところが、信玄に謀反を起こした長男が
亡くなり、次男が失明、
三男も死去していたため、
思いがけず勝頼は武田の後継者となる。

その数年後に起こったのが
三方ヶ原の戦いである。

信玄は、徳川が治めていた土地を
「武田の領地だから」と奪おうとし、
同盟を結んでいた信長を無視して
織田・徳川を攻めた。

信長は「前代未聞の無動」と激怒する。

その戦いで武田が勝利し、快進撃を続けるか、
と思いきや、三方ヶ原の戦いの
4ヶ月後に信玄が死去、
勝頼が武田を継ぐことになる。

1572年12月 三方ヶ原の戦い
1573年4月 信玄が死去
勝頼は家中の取りまとめに苦心
9月  徳川家康が長篠城を攻略
1575年5月 長篠の戦いで武田勝頼が大敗

信長は、三方ヶ原で信玄に受けた鬱憤を、
長篠の戦いで、勝頼に対し晴らしたことになる。

第三部「日本にかくれなき弓取り」

だが、武田勝頼は
ここで終わったわけではなかった。

北条から妻を迎え、
さらに宿敵・上杉と和睦を結び、
織田・徳川への備えを万全にしようと動いた。
謙信亡き後の上杉の後継者争いも収束させた。

かに思えたが、勝頼が和睦させた8日後に破綻、
北条から養子に入った上杉景虎が
戦死したことで、北条の怒りを買ってしまう。

その結果、勝頼は北条、織田、徳川と
敵に囲まれた状態になる。

それでも勝頼は立ち上がり、
新しい城を築いた。

しかし、またもや不運に見舞われる。

浅間山が大噴火したのだ。

人々はそれを不吉とし、家臣は次々に離反、
最後は家臣の裏切りによって、
自刃して果てる。

政略結婚とはいえ、妻の北条夫人とは
仲睦まじかったという。
逃がそうとする勝頼に、
妻はともに死ぬことを選ぶ。

武田勝頼 享年37歳、北条夫人 享年19歳。

三河物語は、勝頼についてこう書いている。
「日本にかくれなき弓取りなれども、
運が尽きさせ給いて・・・」

実は、武田家の領土が最大になったのは、
勝頼の時代だった。
そして、彼は自分から起こした戦は一つもない。

運命に抗い、戦い続けた男。

勝頼が継ぐはずだった地には諏訪大社がある。
主祭神は、大国主命の息子である
タケミナカタという神様だ。

彼は”国譲り”に抗い、
戦いに破れたと古事記にある。
その姿が、わたしには勝頼と重なる。

”最強”のまま亡くなったビッグダディ武田信玄と
宿敵・上杉謙信。
次の時代を作った織田、徳川。

時代が戦国から太平に移る過程で、
勝頼は”誰もが認める国譲り”にするための
重要なキャスティングだったのではないか。

わたしには、そう思えてならない。

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