見出し画像

『熱帯』の論文のようなもの

森見登美彦が『熱帯』において成し遂げた事とは

——『千一夜物語』入れ子構造の受容に着目して——

千夜 史音

筆者注: このnoteは高校の学習の一環で執筆した論文を再編したものです。
ネタバレにご注意ください。
以下のサイトに補助資料を掲載しています。是非ご活用ください。
探究:補助資料

要旨

  森見登美彦『熱帯』は「物語」についての「物語」である。九世紀頃に成立した『千一夜物語』の影響を受けており、『千一夜物語』特有の「入れ子構造」を受容して書かれた作品である。森見登美彦は、なぜ「入れ子構造」を受容して『熱帯』を書いたのか、また、その結果『熱帯』で成し遂げたことは何か、「入れ子構造」の分析と、作品中のキーワードを用いて、考察する。

 

1.はじめに


汝に関わりなきことを語るなかれ
しからずんば汝は好まざることを聞くならん

 森見登美彦『熱帯』は上のような警句から始まる。この一節は、『千一夜物語』(第9夜~第18夜)「荷かつぎ人足と乙女たちとの物語」からの引用である。

 『千一夜物語』は、紀元9世紀頃と推定される誕生の時より、時代を越え、海を越えて森見登美彦の元まで辿り着いた。同氏は、『熱帯』という作品を通して、我々に何を伝えたかったのだろうか。

 なお、著者名、発表年等の記載が無い括弧内ページは、森見登美彦『熱帯』(文藝春秋/2018年)からの引用である。

 

2.『千一夜物語』の入れ子構造


 「『熱帯』は『千一夜物語』の異本なのだから。」(224頁)とあるように、本作品は『千一夜物語』の影響を受けていることは明らかである。

 『千一夜物語』とは、シャハラザードがシャハリヤール王に物語を千一夜にわたって続けるという形式で、中東諸地域・西南アジアを始めとするアジア各地から民族伝承を集めた物語集である。

『熱帯』は『千一夜物語』からどのような影響を受けているのか。その一つに、「入れ子構造」がある。「入れ子構造」とは、作品中の登場人物が、作中で別の物語を語る形式のことであり、また、そのような物語のことを「枠物語」とも言う。

 なお、『千一夜物語』には、『千夜一夜物語』、『アラビアンナイト』等の呼称があるが、ここでは参考文献からの引用を除き、『千一夜物語』で統一する。また、シャハラザード、シャハリヤールも他の表記が存在するものの、『熱帯』内での呼称であるため、これで統一する。

 『千一夜物語』では、緒話「シャハリヤール王と弟シャハザマーン王との物語」を外枠として、シャハリヤール王の元へ嫁いだシャハラザードが、毎夜ごとに物語する。シャハリヤールの下に嫁いだ女性は、王が女性に対して極度な不信の念を抱いていたため、翌朝には処刑される事になっていた。しかし、シャハラザードの物語は大変興味深く、また、物語の途中で夜が明けてしまうため、物語の続きが気になるシャハリヤール王は、シャハラザードを殺す事が出来ない。このシャハラザードによって語られる物語を内部に持つという形式が、「入れ子構造」である。この「入れ子構造」はシャハラザードの物語の登場人物が、更に別の物語をすると、その構造は複雑難解を極める。

 『千一夜物語』の「入れ子構造」を図示したものが以下の通り。


図1 『千一夜物語』の「入れ子構造」 


また、『千一夜物語』の「入れ子構造」について、

 アラビアン・ナイトは大体百八十ほどのかなり大きな物語からなっているが、これらの物語の中にはさらにまた他の説話を含んでいるものも少なくない。多いのになると二十七もの支話に別れているものがある。これらの多数の説話をシャハラザードという賢い妃が、千と一夜の間に、夜な夜なシャハリヤール王と、自分の妹ドゥンヤザードに話して聞かすという構造になっているが、何故にこの女性がそのような長物語をするようなことになったかということにも、またひとつの不思議な来歴があったので、この因縁話が枠となって全編をその中にかこみ込む形式になっている。
(中略)
 このように分析していくと、まことに錯雑に入りくんだ構造のごとく思われる。実際そうに違いはないけれども、読者はページを追っていくうちに、知らず知らずのうちに支話の廊下をたどったり、主話の広間を通りぬけたりして、決して無理につぎあわせた建物の中を見てあるくような感じは受けないであろうと思う。まことに巧みに人びとを導いて最後に出口まで連れてゆく手腕は、結構の妙を示したものといってよいように思われる。

(平凡社『アラビアン・ナイト(一)』前嶋信次/1966年)

と述べられている。

 では、『熱帯』の「入れ子構造」の基礎となった『千一夜物語』の「入れ子構造」は、『熱帯』においてどのように展開されるのだろうか。

 

3.『熱帯』のあらすじ


 以下に『熱帯』のあらすじをまとめておく。なお、便宜上、森見登美彦の著作である『熱帯』と、森見登美彦『熱帯』内に登場する佐山尚一の著作「熱帯」を二重鍵括弧と鍵括弧で区別している。

 筆者注:論文では詳細なあらすじを記載しましたが、ここでは省略します。手元に『熱帯』を置きながら読んでいただけると幸いです。

 

4.『熱帯』への疑問


 森見登美彦『熱帯』においても、巧妙な「入れ子構造」が姿を現す。今、「巧妙」と記したが、私は森見登美彦がなぜ『千一夜物語』を受容した作品を書いたのか、『熱帯』において「入れ子構造」にはどのような効果があるのかを探究するために、『熱帯』の「入れ子構造」を考えたい。以下、本論文の展開である。

 第一に、『熱帯』における「入れ子構造」の効果について、語り手の変化を中心に考察する。

 第二に、『熱帯』内で繰り返される、「世界の中心には謎がある。『熱帯』はその謎にかかわっている」について、「世界の中心にある謎」とは何か、『千一夜物語』の受容に注目して考察する。

 第三に、『熱帯』で描かれる「門」の表現について、「入れ子構造」への効果を考える。

 最後に、森見登美彦が『熱帯』で成し遂げたことについて、考えを深める。

 

5.『熱帯』の「入れ子構造」

5-1.「入れ子構造」の整理

 『熱帯』の流れ、「入れ子構造」は次のように整理出来る。

 

【外枠】
「森見登美彦」の手記(第一章 沈黙読書会)

【入れ子Ⅰ】
「森見登美彦」が参加した沈黙読書会で語られる白石さんの話(第二章 楽団の男)

【入れ子Ⅱ】
白石さんが受け取った池内氏の手記(第三章 満月の魔女)

【入れ子Ⅲ=「熱帯」】
池内さんが迷い込んだ「熱帯」の世界(第四章 不可視の群島・第五章 「熱帯」の誕生)

【入れ子Ⅳ】
魔王≒栄造氏、満州にて(第五章 「熱帯」の誕生 四五八頁~)

【入れ子Ⅴ】
長谷川氏、西方にて(第五章 「熱帯」の誕生 四六四頁~)

【入れ子Ⅵ】
商人≒シンドバッドの冒険(第五章 「熱帯」の誕生 四七〇頁~)

【入れ子Ⅶ=「熱帯」≒『千一夜物語』】
シャハラザードの語った物語(第五章 「熱帯」の誕生 四七七頁~)

【入れ子Ⅲ】
再び池内氏の手記(第五章 「熱帯」の誕生 四八〇頁~)

【外枠’】
「佐山尚一」の手記(第五章 「熱帯」の誕生 四八四頁一三行~)

 

 本作品は、少々複雑な枠物語であるため、以上の「入れ子構造」を図示すると以下の通り。

図2 『熱帯』の「入れ子構造」

 

5-2. 語り手の変化から考える「入れ子構造」の効果

 『熱帯』では、【外枠】(第一章 沈黙読書会)では森見登美彦、【入れ子Ⅰ】(第二章 満月の魔女)では白石さん、【入れ子Ⅱ】では池内氏、というように語り手が変化していく。このことについて、ワタナベ(2018)によると、

語り手となった人物は次章から登場しないというのである。
第一章の語り手「森見登美彦」は二章以降登場しないし、第二章の白石さんも、第三章の池内さんも。
みんな、誰かを追いかけているつもりが、知らない間に『熱帯』に飲み込まれている。
 
 佐山尚一←千夜さん←池内さん←白石さん
 
 そして、飲み込まれたあとは皆どうなっているかわからない。唯一、佐山尚一だけはその後を書いた(第5章と後記)。
〈中略〉
この作品は、ある一人の人間について、通時的ないしは深く描いたというわけではなく、複数の人の人生のある側面を組み合わせて作った物語。つまり、『熱帯』に入りこんで、そのあと別の人生、世界へ向かうという側面。

と、2018年12月15日に文藝春秋社で行われた「沈黙しない読書会」にて森見登美彦が述べていたという。

 また、「登美彦氏による幻の書き込み本」(文藝春秋)には、『熱帯』第二章扉に「「読む人々」の物語」、第三章扉に「読む人が書く人へ変身する物語」とあり、森見登美彦自身が「読む人」→「書く人」という構図を意識していることが分かる。したがって森見登美彦は、「入れ子構造」の入れ子ごとに主体が変化していくという特徴を生かして、「読む人」が「書く人」に変化し、語り手となり、「熱帯」の世界へ飲み込まれるという構造を効果的に描いた。

 加えて、第二章、第三章に登場する幻の本「熱帯」について調べる読書会「学団」の「サルベージ」について「登美彦氏による幻の書き込み本」では、「小説を書く作業に近い」と述べられており、『熱帯』には、「自分たちで創りだしているみたいでしょう」(82頁)という記述がある。「学団」が「熱帯」を読んだ人々から「熱帯」を創り出す人々へと変化していることも、「入れ子構造」の効果と同じ目的があると考えられる。

 

5-3. 「世界の中心にある謎」から考える「入れ子構造」の効果

 『熱帯』では、しばしば「世界の中心にある謎」という言葉が用いられる。例えば、

「この世界の中心には謎がある。『熱帯』はその謎にかかわっている」(39頁)

「世界の中心には謎がある」魔王は秘密を打ち明けるように囁いた。「それが『魔術の源泉』なのだ」(390頁)

という一節がある。特に後者の一節は、第五章で語られ、『千一夜物語』との関連性も認められるため、この一節について考察する。

 454頁からシャハラザードから託された「物語」が、シンドバッド、長谷川氏、永瀬栄造、ネモと語り継がれていくように描かれている。「そのカードボックスにはひとつの『物語』が入っている。遠い昔、はるか西方から伝えられてきたものだ。」(458頁)とあるように、栄造氏の「カードボックス」の中には、一つの『物語』が入っている。また、栄造氏に『物語』を託した長谷川氏が『物語』を受け取った商人シンドバッドは、「あなた様は『魔女の月』へ流れついたのでございます。砂丘の向こうにある宮殿で、満月の魔女があなた様をお待ちかねですよ。」(472頁)という台詞の後にシャヘラザードと出会い、「そしてシャハラザードが語った物語とは――。」(476頁)とあるため、「満月の魔女」はシャハラザード、『物語』は『千一夜物語』であると考えられる。

 加えて、「かつてこの海域は満月の魔女が支配していた。私は彼女から魔術(=〈創造の魔術〉)を教わった。」(334頁 括弧内筆者)とあるが、『物語』を託されるということを「熱帯」内では〈創造の魔術〉を教わる、と表現されている。

 これによって、「『熱帯』は『千一夜物語』の異本なのだから。」(二二四頁)の意味が明らかにされる。さらに、【入れ子Ⅳ】~【入れ子Ⅵ】で描かれる『物語』を語り継いでいくということを、【入れ子Ⅲ】【入れ子Ⅶ】の「熱帯」というファンタジー空間を用いることで、〈創造の魔術〉の授受と表現することにも成功している。

 

5-4.「門」の表現から考える「入れ子構造」の効果

 『熱帯』では、「門」という言葉を用いた表現が印象に残る。『熱帯』に登場する「門」の表現を左に記す。

 

  1. 「千一夜 ここに始まる」
    まるで巨大な門の開く音が聞こえてくるかのようだ。(10頁)

  2. ゆっくりと深呼吸してから、私はペンを取って次のように書き記します。  汝にかかわりなきことを語るなかれ
    しからずんば汝は好まざることを聞くならん
    そのとき、巨大な門の開く音が聞こえたような気がしました。(257頁)

  3. この門をくぐることを決めたのは君自身なのだよ(458頁)

  4. かくして彼女は語り始め、ここに「熱帯」の門が開く。(523頁)

 

 これらの表現に共通することは、物語の始まりを「門」に喩えている点である。例えば、2.の一節は、「熱帯」が語られる第四章の直前の文章であり、後の展開を予期させている。また、3.の一節は、ネモが栄造氏から「物語」を受け継ぐ際に書かれている一節で、「物語」を開き、その世界に入っていくことを予感させる。物語の始まりを「門」を開くように表現することで、読者に次の入れ子に入っていく様子を鮮明に映し出させる効果があると考えた。

 また、4.の一節は、『熱帯』の最終文である。そのため、本を閉じることについても、2.と同じように次の「物語」の世界へ向かう「門」を開く動作であるような錯覚が起こる。そうすると、今まで「物語」内だけに存在した「熱帯」を語り継いでいく「学団」の人々、という構造が、『熱帯』を語り継いでいく読者、という構造に変化すると考えられる。これは、「物語」とそれを語る人という構造で立体的に「物語」の世界を描写する「入れ子構造」が可能にしたことであろう。

 

6.まとめ——森見登美彦が『熱帯』で成し遂げたこと

 『熱帯』における「入れ子構造」は、入れ子ごとに主体が変化していくという特徴を生かして、「読む人」が「書く人」に変化し、語り手となり、「熱帯」の世界へ飲み込まれるという構造を描くことや、入れ子ごとに世界観を変化させられるという特徴を生かして、「物語」を受け継ぐことと〈創造の魔術〉を授受することを関連させて表現すること、また、『熱帯』の世界を読者の生きている世界に繋げることを可能にした。

 「語る人」が「書く人」に変化する過程、〈創造の魔術〉の存在、「物語」を語り継ぐことに重点が置かれた「熱帯」の世界に注目すると、森見登美彦は『熱帯』で、「世界の中心」には「物語」という謎があり、誰でも「物語」を語り継ぎ、創造することが出来ると描くことを成し遂げたと言える。

 

7.おわりに

 本論文では、森見登美彦が『千一夜物語』から受容した「入れ子構造」を通して、『熱帯』について考察した。

 先ほども述べたように、『熱帯』は次のような一文で締めくくられる。

 

  かくして彼女は語り始め、ここに「熱帯」の門が開く。

 

 『熱帯』を読み終えた時、私にも「熱帯」の門の開く音が聞こえたような気がした。我々はこれからも「物語」を読み、「物語」を語り、生きていくのであろう。

 

  まだ終わっていない物語を人生と呼んでいるだけなのだ(130頁)

 

参考文献

  • 『熱帯』(森見登美彦/文藝春秋/2018年)

 

  • 『アラビアン・ナイト(一)』(前嶋信次/平凡社/1966年)

  • 『完訳 千一夜物語』(豊島与志雄・渡辺一夫・佐藤正彰・岡部正孝訳/岩波書店/1988年)

  • 『アラビアンナイト――文明のはざまに生まれた物語』(西尾哲夫/岩波新書/2007年)


筆者注:2022年4月10日現在、閲覧不可となっています。


筆者注:如何でしたか?論文とは言い難い拙い文章ですが、少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。
#わたしの熱帯 とは少し趣旨が異なる気もしますが、許してください。

私の熱帯&熱帯と達磨くん


アイス食べたいです!!!