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【映画レビュー】 イタリア映画祭2024 「まだ明日がある」



【概要】


イタリアの人気コメディエンヌ、パオラ・コルテッレージの監督デビュー作で、自身が主演も務めた人間ドラマ。
2023年にイタリアで公開されて、その年の興行収入でNo.1を記録。
今回イタリア映画祭2024で日本に初上陸した本作は、現在オンライン上映でのみ視聴が可能。視聴料金は1500円。


【あらすじ】


1946年、第二次世界大戦終戦直後のイタリア・ローマ。ベニート・ムッソリーニによるファシスト党が解散し、市民の間では沸々と改革の機運が高まっていた時代。
3児の母であるデリアは仕事と家事を両立しながら、寝たきりの義父の介護にも勤しんでいた。そんなデリアを何よりも苦しめていたのは夫ディーノからの暴力だった。父の度重なる暴力に屈するだけの母の姿を見て育った長女マルチェッラは愛想を尽かし、次男と三男は父の影響を受けて横暴になっていくばかり。
そんなデリアの日常は、昔馴染みの友人ニーノからのとある提案と、マルチェッラの縁談話をきっかけに大きく変化することになるが…。

【レビュー①】 家父長制がもたらす呪い


以下作品の内容に触れていますが、核心的なネタバレはありません

つい先日下半期が始まったばかりだが、早速年間ベスト級の作品と出会ってしまった。
先日記事にした上半期映画ベスト10の中でも触れているが、上半期は女性が主人公の映画が抜群に面白かった。それに関連した話題をX(旧Twitter)でもしていたところ、フォロイーから本作を紹介されたことが鑑賞したきっかけである。
筆者の上半期映画ベスト10の1本である「アイアンクロー」、これは家父長制という呪いが家族を蝕んでいく物語だった。
本作でも家父長制の恐ろしさがまざまざと描かれている。

映画の冒頭、時計の秒針の音が鳴り響く中で目覚めたデリアは、隣で先に目覚めていた夫のディーノに「おはよう ディーノ」と声をかける。次の瞬間、ディーノはデリアに平手打ちを喰らわす。非常に強烈なオープニングだ。
ここでは「何故妻のお前が俺よりも後に起きるんだ」というディーノの女性蔑視が露骨に描かれており、本作のテーマを端的に象徴するシーンとなっている。
家父長制の権化とも言えるディーノにされるがままのデリア。その母の姿を見て呆れる長女。そして父の真似をする次男と三男。まさに家父長制が如何にして次世代へ呪いとして継承されていくかが手に取るように分かる。
そしてもちろん、ディーノもまた父からそれを引き継いでいることは、寝たきりの(デリアから見て)義父を介護するデリアへの対応(セクハラ・罵倒)を見れば一目瞭然である。

これが冒頭数分の内容であるが、なかなかに重苦しいトーンで尚且つ白黒映像のため、非常に真面目で堅苦しい印象を受ける観客が多いはずだ。
ところが上記で触れたアバンタイトルが終わり、デリアが街へ出掛けると同時にタイトルが表示されると、途端にモダンミュージックが流れ、デリアと共に市井の人々が映し出されていくという軽快なシークエンスが始まるのだ。

こうした演出はこれだけではなく、例えばディーノがデリアに暴力を振るうシーンをダンスに置き換えた演出は非常に印象的である。これは実際のDV被害者への配慮であったり、或いは暴力は受けていても心までは決して支配されないというデリアの心境を表す意図があるのかもしれない。
いずれにしても、男性社会において抑圧される女性たちを真摯に描きながらも、映像や音楽などの演出は遊び心に溢れていて、言葉を選ばずに言うならば、非常にエンターテインメント性が高い作品になっている。


【レビュー②】 逃避ではなく今いる場所で戦おう


※以下作品の核心に触れています。未見の方は注意してください


【あらすじ】の項目でも触れたように、物語が動き出すきっかけは、デリアの昔馴染みの友人ニーノからの提案である。この提案とは、仕事の都合で北部に移り住むから一緒に来て欲しい、というものである。要するにデリアに対して家庭を捨てて、自分と駆け落ちしようと言っているのである。
紆余曲折を経て、デリアはニーノと共に行くことを決心する。しかし、長女マルチェッラの縁談相手から次第に有害な男性性が露見し始めたり、駆け落ち当日の朝に義父が亡くなったりとなかなか思うようにいかない。
「まだ明日があるわ」と胸の内を吐露したデリアは翌朝ついに動き出す。ディーノの追求を何とか切り抜けて街に出たデリアだが、家を出る際にニーノから受け取った(と思われる)手紙を落としてしまう。
その手紙を読んで激怒したディーノはデリアを必死に追いかけ、マルチェッラもまたその手紙を読んで母を追いかける。
デリアは無事に目的地に辿り着き、そこは多くの人で混み合っていた。いよいよバス?電車?、何かしらの交通機関でニーノのもとへ向かおうという矢先、手紙を紛失したことに気付くデリア。万事休すかというタイミングでマルチェッラが現れ、デリアに手紙を渡す。
群衆にのまれながらも一歩ずつ歩き出すデリア。音楽が流れ始め、カメラがゆっくりと上に向かってパンしていくとそこに映るのはとある建物だった。

どことなく全体的に妙な違和感はあった。登場人物たちの会話、街に張られたポスター。しかしそれを確信へと至らせなかったのは「不幸な女性は白馬の王子様の手によって救われる」という女性の主体性の矮小化であり、筆者自らの蔑視や先入観だった。
そう、デリアはニーノのもとへ向かったのではなく、選挙のために投票所へ向かったのだ。1946年6月2日-3日は、イタリアで女性が参政権を持つ初めての選挙が行われた日なのだ。
ここまで来て初めて、「まだ明日があるわ」という台詞は「まだ明日も(投票)があるわ」という意味であり、紛失した手紙は投票券であったことに気付く。
女性は手を差し伸べてくれる誰かによって幸せになる存在ではなく、自らの主体性で幸せを掴んでいく存在であるというあまりにも素晴らしいメッセージではないだろうか。
そしてこのメッセージは、デリアは家族を捨てて駆け落ちをしようとしている(それが彼女にとっての幸せ)と思い込んでいた観客(筆者だけではないことを祈りたい…)の蔑視を顕在化させるという映画体験を齎すのだ。
冒頭から何度も描かれてきた有害な男性性による女性たちの苦しみを観客は誰よりも分かっていたはずだが、それでもデリアと観客の間には温度差が生まれてしまった。
これはつまり、現在もまだ家父長的な思考が根強く残ることを示唆しているのだ。
さらにもう一歩踏み込んで述べるならば、ニーノは逃避の暗喩であり、今いる場所から逃げるのではなく、今いる場所で戦おうというメッセージであるとも言える(逃げることを否定するわけではないと断っておく)。

【最後に】


本作を鑑賞したのは7月7日、つまり東京都知事選挙が行われた日である。何という偶然であろうか。
残念ながら旧来の権力が支持され、新たな冷笑主義者が台頭し、リベラル的な存在は影を潜めるという結果になってしまったが、投票率が前回よりも上がったことは数少ない希望でもある。
失望はしても絶望はしてはいけない。まだ明日があるのだから。


本作の視聴期限は7/28までとなっているが、「視聴可能な人数に制限があり、制限を超えた時点で配信終了となります。」との注意書きがあり、制限人数に関しての言及がないため、どのタイミングで配信終了を迎えるのか予測が出来ない。そのため、鑑賞の予定がある方は出来るだけ早めに鑑賞することを勧めておく。


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