高円寺 小杉湯

昨日は少し、夜更かしをした。
朝早く起きた割には夜までやることは詰まっていて、帰った頃にはいつも床につくような時間だった。
夜更かしをして、ゆっくり寝ようと思った。

朝、時刻は朝7時。いつも寝る時間とさして変わらない時間だ。
夜更かしをした割には早く起きた。
日曜の朝、ゴールデンタイム。僕はヨガマットを広げストレッチや筋トレを始める。
少し寝足りないと感じるこの体は、それを拒絶する。やりたくないやりたくないと拒絶する。
でも日曜日というものはこのゴールデンタイムをどのように扱うかでその後の時間が大きく変わる。何も予定のない日ならば尚更だ。
僕は寝足りない体を動かし、筋と筋の凝縮した繊維の一本一本を動かし、自分の操作するその体に朝を告げる。そして筋肉がやっと意識と接続され始めた頃に負荷をかける。
起きるだけでは行けない。人間が心地よく生きるのには負荷が必要なのだ。

僕と体が接続し、ちょうど一つになったところで僕は家を出た。
今日という日をさらに良くするために、起きてくれた体にはご褒美を与えなくてはならない。

高円寺 小杉湯。
僕は午前9時、そこへ向かう。

小杉湯にはサウナがない。
そのかわり、むしろ僕はそっちの方が好きなのだけど熱湯の風呂と白濁色のなめらかな温度の風呂と、水風呂がある。
それ故に、この風呂と水風呂の行き来によって僕は体を満たすのだ。

小杉湯の湯船はどれも下から空気の塊が下から体を押し上げてくる。
そこに張られたお湯は下から下からと断続的に僕を押し上げて、この湯船の存在と僕という存在は全く別種のものであると知らせてくれる。
水は水に入ると水になる。水と水ではなく、水になるのだ。
しかし、この小杉湯の湯は僕と水を僕とはしてくれないし、水ともしてくれない。
この一つ一つの泡が僕の体に当たり、水と僕の境界線を明確にする。
そしてこの心地よい体性感覚への衝突は、温度と共に伸び切っていなかった筋をほぐしてくれる。
僕は僕の身体的刺激が故に、疎外感を与えられ、一方でその気持ちよさを与えられる。

熱い熱いお湯から出ると、僕はすかさず水風呂に至る。
体に与えられる刺激は、脳よりも先に心臓へ向かう。
普段は寝ているくせに、バクンバクンと音を鳴らすようにその存在感を示すそれはどこか可愛げがある。
そんなかわいい心臓を愛ででいると、次第に僕は体を失っていく。
わななく空気の塊によって僕に体を意識させるのとは反対に、その水風呂は静かな冷水によって僕と水を一体にさせる。僕はその時、僕と水から僕と僕になる。

僕はこの時、生きていて唯一体を手放すことができる。
体は自然へと迎合し、そうして意識だけがその場に残る。
いつも体からの刺激を処理するだけだった意識は、初めてそれ自体を存在として認識されて水の中に取り残される。

そして僕は1人の人間になる。体と意識を認識することで、改めて1人の人間になる。

僕はこの、体と意識の往来が好きで今日もまたここに来たのだ。

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