それでもまだ、憧れる

僕たちは、たとえ手放していたとしても、1度手にしてしまったものであればそこから心を離してしまうことができない。
一度でもそこに寄り付いてしまったのなら、それは一生僕たちの脳のどこかには居続けてしまう。

例えば僕は、いわゆるソシャゲであるパズドラを何度も何度もやめてきた。高校時代にはテストに専念するために大学時代には度重なるインフレについて行くことができずに辞めた。だというのに、数ヶ月して風の便りで入ってくるパズドラの情報に興味を持って今のパズドラを知り、そしてまた戻っていく。そんなものを人間には誰しもが経験しているだろう。

僕にとってそれは"男性らしさ"だった。

僕は若い男性が心底苦手だ。
学生時代の友人、職場の仲良くなることができた先輩たちを除いてはほぼ全ての男性に対して苦手意識を持っていると言っていい。
それは目の前にいない人にでも当てはまる。
僕は男性ながらにメイクをするのだが、決してメンズメイクの動画を見ることはない。
いくつかの女性が行っている女性向けのメイクを見て、自分向けにアレンジして実践している。
もちろん男性の動画を見ないわけではない。男性のものも見るが、それらは僕が勝手に同族と見做している人たちだ。そこに20代のイケイケメンズはおらず、往々にして30を越えて自身の男性性を一部で放棄している人たちなのだ。

そう。僕が若い男性を苦手としているのは、僕が男性性を放棄しているからだ。そして僕はその放棄された男性性に引け目を感じている。だから、僕は僕以外の男性らしい男性たちを直視しコミュニケーションを取ることができないのだ。僕はそういう彼らに怯えている。

僕はこの人生において、何度も自分の男性性を放棄してきた。ある時には自分の中に肥大する男性性を恐れ、ある時には自分らしさと男性性の両立が難しくなり手放す形でそれを捨て去った。しかし、未だに僕は自分自身の中のそれに拘泥している。

元々の僕は1人の姉の弟として、その素養を持っていたと思う。未だに年上の女性と話していれば「姉いるでしょ?」と聞かれるくらいには弟特有の性質はあるしそれは当時から自分の性格を構成する根源的なところで存在した。
しかし、幼いころの私はやはり平成初期の男児らしく男性らしさこそが自分であると自覚していたと思う。◯◯レンジャーに憧れ、アニメを見ても男性らしい強いキャラクターに憧れていた。中でも家庭教師ヒットマンの雲雀恭弥や遊戯王5D'sのジャックアトラスのような誰からも指図されない孤高の男性性に憧れていた。しかし、他方でイナズマイレブンにおけるアフロディや佐久間次郎、家庭教師ヒットマンリボーンにおけるスクアーロなどの揺るがない男性性とともに女性的アイコンであった長髪を併せ持つキャラクターにも憧れていた。僕は当時から強く意識したわけではないが、自律した男性性と共に女性性自体にも少なくない自分の可能性を見ていたのかもしれない。

しかし、ある段階で僕は自分中の男性性を明確に追放しようとした。僕は中学生の途中に自分の男性らしさに嫌悪し恐怖した。きっかけは中学生らしい思春期における男性性の自覚だ。男性的な強さへの固執による他者への加害性、性の芽生え、この時期の男性性と直列で結ばれる父性への恐怖。それらが重なった。同時に、周りと比較した時、明らかに自分の男性性の成長が年相応に行われていないことを感じた。この男性性に対する嫌悪感と劣等感によって僕は高校に入る頃には一度それを諦めた。自分らしく生きる選択をした。そしてそれは成功と失敗をしていた。僕は自分らしい友達を作ることができた。同じように男性らしさの萌芽をうまく育てることができなかったナード仲間と出会うことができた。しかしその中でできた彼女との関係をうまく続けることができなくなった。少なくとも当時の僕の中で男性らしさと誰かの彼氏であることは等号で結ばれていたし、当時の彼女もそういうところを僕に求めていた。しかし僕はそれに応えることができなかった。最初こそ僕はそれらしく答えようとしたが、次第に僕の中の何かは歪み、彼女とコミュニケーションを取ることすらできなくなってしまった。僕は自分の中の男性性とも彼女とも決着をつけることができず、彼女から別れを切り出されることをただ待っていた。そしてそれ以来、自分の中に彼女を作ることに対する強い恐怖感が生まれた。時を共にすることとなる女性からの求めに受け応えることができず、また自分が塞ぎ込みただ相手に不幸を与えるだけの存在になってしまうことに対する恐怖が。

この時、僕は朝6時に家を出て1時間かかる高校に電車を乗り継ぎ通っていた。夜12時過ぎに布団に入り、6時には家を出る。そんな無理な生活を支えてくれたのが母だった。僕は朝感謝と共に母に対する強い憧れを抱いた。大きくなればこんな人を支えられる人間になりたいと思った。当時父親が体調を崩し満足に生活ができていない状況を見て、父性に対する諦念と母性に対する憧憬を強くした。そして、人生の選択として母親が選択した職業である看護師の道を歩むことを決めた。男性らしさを求められない女性らしい職業を選ぶという選択だった。この時、僕はもう一度自分の生きる道として男性性を諦めた。
この時から大学生になった頃にはもう、男性性の強いキャラクターを好きになることもなくなっていた。ラブライブの西木野真希や、BORUTOのカワキ、イナズマイレブンの灰崎凌兵と言った、拗らせて自分の強さだけを信じる今年ができない。しかしそれでも周りには愛されるキャラクターにその憧れの的を移していた。明らかに自分の中の混濁した人格に対する自覚と、それでも周りには認めて欲しいという欲求がそこには現れていた。
今思えば、この頃が最も自撫的でどうしようもない人間性をしていたと思う。何度も何度もそれを諦めても憧れることを止めることができず、それを自分の強さによって代替しようとしていた。だから、そんな自分を肯定するために勉強をしたし周りに頼られるような人になろうとした。これ自体は僕を強くしてくれる1番のモチベーションになってくれたし、そのおかげで今の自分がある。しかし強くなればなるほどに僕の性格は歪んでいき、男性性に対する引け目は強くなり男性が苦手になっていった。

大学3〜4年生になるころの僕はある意味で満たされていた。看護学生の男友達はみんなどこか男らしさを欠損している人たちで友達として馬があった。それに、ボランティアを行う学生団体で知り合った男性たちもまた僕の恐怖するタイプの人間ではなかった。僕の周りには僕を守るようなシェルターの人間関係ができていたし、少なくともその中では僕は男性でも女性でもなく僕でいることができた。自分の中の男性性の欠損を自覚しながらも、それを自分として肯定してくれる友ができた。それが僕にとっての救いであるのと同時に、この自分の中の男性性への憧れの処理を遠ざける要因となってしまった。僕はその戦いから逃げる形で折り合いをつけた。

それから、なんやかんやあって僕は一度憧れた看護師になることを辞めて一般就職を行なった。理由を言えば限りはないが、その一つとして看護師=母性(自分が母になること)への憧れが薄れたことがあるだろう。
しかし僕の就職した先は女性社会だった。僕の部署は僕を除けばみんな20代の女性だった。ここで唯一の男性となった僕が取る選択肢は、男性として居座るか、女性として居座るかの2択であっただろうが男性性をすっかりと諦めてしまっていた僕は後者の形でそこに適応した。そう。僕は今、環境への適応という形で何度目かの男性性の放棄を行なっている。
しかも今回のそれは精神だけではなく僕自身を形作るものさえも飲み込んでいる。僕はメイクを始めたし、まつ毛のパーマをかけている。あと一歩先に進めばネイルさへもしてしまうだろう。僕は女性性へ滲みよるだけでなく形まで近似しようとしている。しかし僕の性愛の対象は女性のままであるし、男性としての自分を磨くという意味で女性性を獲得している側面がある。かつての男性が車や飛行機によって身体拡張を行い男性性を強めていたように、形としては女性的になりながら男性性を強くする身体拡張の手段としてメイクアップを行っている。そして僕はそれが僕であると認めていたしそれでいいと思ってもいた。
ちなみに、このメンタリティを持つようになった僕が憧れるようになったキャラクターは、呪術廻戦の釘崎野薔薇や、モアナと伝説の海のモアナやムーランと言ったキャラクターだ。僕は自分が男性であるということを諦めながら、自分自身の個性として男性的な強さを肯定しているキャラクターに憧れるようになった。このことからも、形は女性的であることを選択しながら、精神としては男性性を持つということを選ぶようになっていることがわかる。

実にアイロニックな形での男性性への拘泥でありながら僕はそれもまた僕という人物であると肯定しようとしていたし肯定していた。ただ、ストレートに男性性を持った普通の男性や女性性を選択した男性に対する引け目を感じながら。

条件付きではあるが、やっと一つの決着がついたというのにここ数ヶ月、この自己の男性性への憧れというものがもう一度大きくなってきた。というよりも必要性によって大きくなるを得なくなってきた。年相応に結婚の問題が近づいてきた。

僕は、アイロニックな自己の男性性の回復によって、高校時代に失敗した恋愛で喪失することとなった人を好きになる力を回復しようとしている。実際僕は今憧れの人が生まれたしその人とより近づきたいと思っている。しかしこれが議論を再浮上させる要因となった。僕がその女性に好意を寄せることができたのは、そんな僕のアイロニックな男性性を全面的に肯定してくれたことにある。彼女は僕のメイクを褒めてくれ、それを女性らしさの側面からではなく僕が行おうとしている男性性の身体拡張の一部として肯定してくれる。僕が女性の先輩に行っている、同じ女性というステージに上がることで肯定するという行為ではなく、彼女は彼女のステージからこの捻じ曲がった僕の男性性を認めてくれたのだ。それが僕にとっては感動的だったし初めての出来事だった。そうして僕は彼女への好意を強くした。これだけで終われば良かったが、僕には学生時代のトラウマが残っている。自分の中の男性性に対する恐怖だ。もし、僕が今そうなることを望んでいるように、結ばれるとしたらあの時のように僕は男性と女性として結ばれることになる。そうなった場合に僕は男性としての男性を全うできるという自信がない。ストレートな男性性を必要としないが故に彼女を好きになりながら、僕はその先へ向かおうとする時再度ストレートな男性性を持たないことへの恐怖心を強くしてしまっている。
僕が身体的に男性である以上、そして精神的にも男性である以上この憧れから切り離されることはないのだろう。
そして、性役割として、男女のつがいとならなければいけない時、僕はこの問題と再度向き合わなければいけなくなるのだ。
僕は今、何度目かのこの憧れに対する問題に直面している。

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