見出し画像

引用1:【受験小説】併願早稲田2020(2021年版)

【引用1】
【受験小説】併願早稲田2020(2021年版) 神谷英邦 https://www.amazon.co.jp/dp/B09NM9V1PF/ref=cm_sw_r_tw_dp_VVM7FAX7FNFZE2ZAS4RA

第2章より引用。引用者は、著者本人。
======================
高校3年生・北条陽介は、2019年大学入試を「受験校全滅」で終えた。3月入試には参加していない。2020年1月のセンター試験をもって「センター試験」が終わるというゲームのルールを想定して、「1年浪人して2020年に合格すればよい」と思っていたが、今(2019年3月)は、その余裕がない。「併願早稲田」という名の受験戦略を、プロ家庭教師の武藤頼尚が提案する。以下の引用では、第1回目の全国模試で「勝つ」ために位置付けた、武藤の授業風景である。
=================


「この1冊を、今日中に、ですか?」

「そうです。できます。終わらせてもらいます」

 北条陽介の勉強机には、1種類・2冊の新書が置かれていた。
 亀田俊和(としたか)『観応の擾乱』(中公新書)。
 1冊は武藤のもので、読み込んだ感じがある。
 もう1冊は、新品。

 ベストセラーになった新書であるが、呉座勇一『応仁の乱』、坂井孝一『承久の乱』、元木泰雄『源頼朝』も半年後には北条陽介の読書リストに入っている必要がある。東京大学(文科)日本史では、必ず中世からの出題がある。一般向けに書かれた歴史書を何冊か通読しなければ、東京大学(文科)日本史には太刀打ちできない。

「まず、どれだけ時間がかかってもよいですから、第1章を読み終えてください。『日本史用語集』をはじめとして、図説や教科書を見てもかまいません。手強いですよ」

「その後は、どうするのですか」

「第2章以降は、30分以内で『通読』してもらいます。読み方、つまり目の配り方とページのめくり方は私が示します。まず、第1章を熟読してください。すべてはそこからです」

 北条陽介は、難なく第1章を読み終えた。
 日本史を一通り学習しているようだ。亀田俊和(としたか)『観応の擾乱』第1章は読み応え十分な内容なのだが、まだ高校に籍を置いている、大学受験生・北条陽介にとって、「制限時間内に内容を読解する」という習慣が抜けきっていないため、武藤のように熟読するという姿勢を身につけていない。
 武藤は、亀田俊和(としたか)『観応の擾乱』(中公新書)を手にとって、第2章以降を、視線の動かせ方を解説しながらページをめくった。

「読書経験を積んでいくと、注目する用語というのは、目に入ってきます。名前や地名などの固有名詞のほか、『日本史』の知識があると、歴史用語も気になりますね。その周辺に目を通しながら、『ページをめくる』という動作を意識してください」

 人物が敵・味方に分かれて、人物関係がよくわからない、とよく言われる。しかし、「足利尊氏と足利直義の兄弟の戦い」という高校日本史の知識をおさえておけば、桃井直常クラスの人物名も流し読みすることになる。武藤が要求しているのは、亀田俊和(としたか)『観応の擾乱』(中公新書)の醍醐味を忘れて、一年後に控えた「大学受験」というゴールをめどとした「読書」である。

 北条陽介のこの先の人生の中で、歴史の醍醐味が人生を豊かにするか、それは誰にもわからない。間違いなく言えることは、日本史という受験科目を通じて、「歴史に接した」ということだけである。教員の武藤にとって歴史は生涯かけて向き合う営為とはなったが、家庭教師業務として接するには、「事務的に処理」することが求められている。

 北条陽介が武藤に言われた通りに「パラパラ読み」をした後、武藤は京都大学(文系)の過去問を鞄の中から取り出した。その中から、南北朝時代の出題を指し示し、回答を求めた。不正解が続出してもかまわない。「日本史」という受験科目の中で出題されているのが、氷山の一角なのだということを体験するのがこの回の目的である。

 この作品内時間(2019年3月)では入手不可能だが、2020年3月26日に初版が出た駿台予備学校『京大入試詳解17年 日本史』がある。2003年から2019年に京都大学で出題された日本史を収録したものであるが、大問4題のうち3題は一問一答形式。17年間で1,000問程度の小問を「千本ノック」できるのだが、一問を解くのに複数の歴史事項を理解していないと正答にたどりつけない一癖ある出題なので、難問はほぼ皆無(ゼロではない)でありながら、日本史に本腰をいれて受験勉強していないと正答できない。

京都大学は、日本史を全く勉強していない受験生を落とすために出題しているのだろう。配点的には、数学で出題される大問5題のうち1題単位で解けばなんとかなるという受験生の一発勝負を阻む仕組みになっていると想定される。

「一部の大学では、日本史・世界史の出題範囲から中世以前を排除している学部があることは確かです。しかし、『早稲田大学・慶應義塾大学で確実に合格する』ためには、日本史中世は必修です。東京大学(文科)で日本史を選択するならばなおさらのことです」

「日本史と世界史のどちらかの勉強は、しなくてもよいのではないですか」

 北条陽介は、周囲がなんとなく選択するので日本史と世界史を学校の授業で選択していた。日本史・世界史ともに戦後史がプリント配布で終わってしまったなどとありがちな展開だったようだが、大学受験では戦後史の出題に大問で遭遇して、「終わった」と思ったらしい。

「日本史と世界史に加えて、センター試験レベルで『倫理、政治経済』も学習してもらいます」

「そんな無茶なスケジュールで、本当に大丈夫なのですか」

「『大丈夫』ではありません。倫理、政治経済の学習スケジュールは、私が機を見て取り入れることになります。倫理では日本史・世界史の思想史を学ぶことができます。政治経済では、戦後史が大々的に取り上げられています。日本史を古代から始めて最後までいかなかった、というのはどこにでもある話ですから、入試問題演習を通して、戦後史の学習を必要だと理解してもらう時期が必ずきます。その時には、日本史・世界史の簡潔で必要最小限の説明をするよりも、政治経済で腰を据えて取り組んだ方が得策です。

 日本史と世界史の両方をする必要があるのか。日本史が世界史と関わってくることは、今の時点では、頭の片隅に置く程度で結構です。一番わかりやすいのは、早稲田大学の古典です。世界史の中国史(古代史)の基本的なことを知っている東大受験生にとって、早稲田大学の漢文の出題で一歩先んじています。註釈を読まないでも、だいたいのことはわかるというのは大きいですよ。入試では、制限時間内で解くことが求められているのですから」

 「歴史総合」という科目名が高校教育の中で語られていた。どのように展開するのかは現時点(2021年12月)でも不透明なのが実情なのだが、日本史も世界史も、大学入学前に基礎的な知識を身につけていないと大学入学後の高等教育で支障となる。

「ところで。世間では、『早慶』と、早稲田大学・慶應義塾大学ではセットで語られていますが、出題傾向は全く違う。このことを北条君。あなたは知っていますよね」

「慶應には、古典はいりませんよね」

「その通り。『国語』ではなく、『小論文』という位置づけです」

「友達も、早稲田と慶應で合否が割れていました」

「そうなるでしょうね。『ゲームのルール』が全く異なるのですから」

「俺、古文が苦手なのです」

「よくあることです」

「どうすればいいですか」

「予備校が始まればお伝えします」

「今、知りたいのですが」

「『今』では、私は、あなたのレベルを判断する材料がありません。予備校の授業は、『受験勉強を一通りしている』ことを前提に進められます。そこで、あなたの弱点を見つけていくのが、家庭教師としての私の役割です」

 古文は、必要とされる労力が大きいワリには、配点が少ない。現代文かとみまがうほどの「古文」を出題されることもある。早稲田大学は本格的な「古文」を出題しているが、慶應義塾大学では、表向き「古典は不要」という出題をしている。古典を原典にあたって読む。これは、日本語・外国語を問わず、「役に立たない」と言ってはばからない人は、ゼロ年代にもいた。今もいるだろう。

 理系受験生にとって、「古文」は特に評判が悪い。医学部受験生にとってセンター試験は落とせない関門なのだが、古文・漢文(配点100点)を満点で通過しなければ国立大学の受験にあたって致命傷になりかねない。

「白状しますと、私は日常生活の中で『古典』に接しています。とりあえず、『マドンナ古文単語』を読むとよいでしょう、とはいえます。語源に着目した解説などは、古文単語を暗記するにあたって『幹(みき)』にあたりますから、派生語を暗記する際にも通用します。しかし、同書が今のあなたに必要なのかどうかは、わかりません」

「『買っておけ』ということで、いいですか?」

「そうです。『読んでおけ』と付け加えましょう。でも、助動詞・敬語、それ以前に品詞分解など、受験科目・古文に取り組むにあたって必要な事柄は細部にわたっています。『古典』に関する世間の関心は冷たいのですが、受験業界では教授法が進化しています。

よく言われることですが、『言葉は生き物』です。たとえ出題される古文の問題が30年前と同じでも、それを読む受験生の日本語の空間は異なります。私は『古文』を教えることはできても、日本の若者文化や言語空間の専門家ではありません。だからこそ、生徒と接する現場を基軸に置いている、予備校の先生には一目おいているのです」

「漢文は、どうですか」

「『古典』の中でも、古文と漢文では、置かれている文脈―――ここでは、日本社会とでも言っておきましょうか。読者の属する社会が異なります。漢文では、東京大学(文科)の国語の出題で大きな変化がここ20年で変わりました。

 かつて、東京大学(文科)の国語は大問を7題構成で、そのうち2題は漢文でした。出題範囲から漢文が除外されていく時代でもありましたが、私(1980生)の前の学年には起きていた現象です。それでも、『漢文』は今も残っています。早稲田大学の国語を攻略するにあたって、『漢文』を捨てることは現実的ではありません。

 漢文の句形をまとめた、ベストセラーの教材があるのは知っています。あなたもその教材を知っているでしょう。しかし、学校などで使い古しているならばともかく、これはおすすめしません。センター試験・東京大学(文科)・早稲田大学の出題を愚直に訓点に沿って取り組むのが、『急がばまわれ』です」

「現代文はどうしますか?」

 北条陽介の前には、やらなければならないことが多すぎて、その全容をつかめない。ムリもない。大学受験を受験校全滅という形で経験したわけであるから、旅に出るなり我慢していたゲームなりを思う存分するのも一策である。しかし、北条家はその道を選ばなかった。

 ネヴァルス社がどのような人選をして武藤に北条家をまわしたのかはわからないが、「町田から南町田は近そうだから」という以外に、深い考えはないだろう。受験業界にとってオフシーズンである3月という時期に、武藤がフリーハンドで長期研究旅行に出かけていなかったのは、単に武藤が飛行機をこわがっているからにすぎない。

「慶應義塾大学法学部に『論述力』という科目があります。課題文を要約するよう指示されていますが、それでまとまった文章を短時間で的確に内容を把握することができるようにしましょう。添削は私がします」

 武藤は、鞄の中から慶應義塾大学法学部の過去問を取り出した。
 大学過去問は、例年5月下旬頃から店頭に並びはじめるのだが、受験生を担当すると、出題傾向の似た大学・学部や、担当する生徒の志望校・併願校にあわせて「大人買い」することになる。

 個人事業主の武藤にとっては手痛い出費ではあるのだが、何年かに一度は自腹で「大人買い」をしていかないと、受験業界で仕事をしていくことはできない。ある大学のある学部の入試問題は、他大学の出題傾向などの「文脈」の中で出題されている。

そのハブとなっているのが東京大学だ。東京大学の出題にあわせて早稲田大学・慶應義塾大学の出題傾向が中期的にできていくと武藤は観測している。

「併願早稲田」というハッタリが契約獲得という面で当たったのは、武藤にとって僥倖だった。偏差値では「早慶」は同じ位置にあるのかは武藤もうすうす知っているが、偏差値にまつわる情報は、全国模試を実施する大手予備校にとって機密情報の宝庫である。保護者ならばともかく、一個人事業主の武藤が問い合わせをすれば、どの予備校も武藤を門前払いすることだろう。

公開情報。それが、大学過去問である。過去問市場には、赤本のほかに駿台・河合塾も参入しているが、武藤が守備範囲としているのは、駿台の青本である。センター試験まで担当範囲を広げてしまうことは体がいくつあっても足りないし、センター試験出題者は毎年かわる。

出題者が誰なのかということは、『官報』で知ることができる。これは、本作品時間の進行中の2019年11月に大きく話題になった。往々にして、知っている人は知っている情報というのは、「公然の情報」として流通しているが、それが世間からは遠い情報である。情報の価値には値段がつかないものである。

武藤が駿台の青本を買っているのは(評価しているのは)、執筆者が予備校の生徒との接点を持っているという点である。出題に問題があったり出題ミスがあったりすれば、容赦なく筆誅を加えている。教員と生徒との年齢差は、自然の摂理に従って隔たっていく。現場との「接点」を求めて、武藤を青本購入へといざなうのである。

「業務に必要なのであれば、自腹を払うのは問題なのではないか」

こうした正論は、受験業界で働く個人事業主には通用しない。
「自腹」が基本である。
ゆがみが生じているのは百も承知なのであるが、現実を前にした「個人」など、無力である。就職氷河期世代の武藤にとって、「仕事のために自分のカネを出す」というのは、当然のことだと思っている。古き良き時代や「今」を知らない。

「武藤先生の課題は多いですね。正直、嬉しいです。誰も何も教えてくれないままに『全滅』になりましたが、流されていただけで自分では何も考えていなかったんですね」

 その流れを断ち切るために、武藤が、今、ここにいる。

「数学に『大阪大学』を使うのも斬新ですね。先生の母校だからですか」

「それもあります。ただ、我が母校ながら悪口になるようなので気がひけるのですが、首都圏では『大阪大学』の存在はほとんどありません。あなたの現時点での実力をみきわめる上で家庭教師として使いやすい出題形式が、『大阪大学』なのです。友達の中で、大阪大学を志望校にしていた方はいますか」

「いません」

「でしょうね。だから、学校の定期試験で『大阪大学の出題を念頭においた出題』は、おそらくされていないでしょう。『大阪大学』は、人気がないのです。だから、本腰をいれて出題傾向を研究して対策をする学校や予備校は、関西を除いて皆無。でも、良い出題をしている。だからこそ、今のうちに、数学IIBの弱点をあぶりだしていきたいのです」

 武藤の当面の作戦は、第1回目の全国模試で大きく勝つことである。高卒生の場合は、「負け」を知っている。だが、一度は大学受験を経験しているので、大学受験の出題範囲を一通り勉強している。だからこそ、一度は、「勝ち」を経験しておく必要がある。その好機は、第1回目の全国模試である。

弱点は日本史・世界史の戦後史なのだが、それは政治経済で補うことができるし、思想史は倫理で補うことができる。倫理は必要なのか。日本史の江戸時代の学者の名前や学派で苦労した方は少なくないだろう。暗記より理解の方がラク。

「『大阪大学』の数学で何を学ぶのですか」

「数学IIBで、どの分野からの出題であろうとも、完答をできるようになってもらいます。実際の大阪大学(文系)で満点をとる必要はありません。実のところは、制限時間内で3題のうち2題完答できれば合格ラインと、いわれます。残る1題は、『難問』というよりは、場合分けに時間がかかるなどの別の要因があります。

 第1回目の全国模試では、高卒生が断然有利です。数学で完答を何題かこなすことができれば、他の受験生に大きく差をあけることができます。大手予備校模試では国語や地歴で大きな差を評価されることもありますが、実際の入試で『波乱』が起きるリスクを小さくできるのは、数学の完答です。

部分点での採点で点差がつくのではなく、完全回答をすることで、採点官に有無をいわさず、高得点をとるのです。『数学で差がつく』といわれるのは、『部分点』についての取り扱いです。大手予備校では多くの採点者の採点基準を統一するために、『ここまで解くことができれば何点』というように採点基準が解答でも示されますが、入試本番ではこれが通用するとは限りません。

 京都大学を志望校にしない限り、数学では『完答』を目指す。これが肝心です。部分点をコマメに稼いで・・・・・・という作戦は、予備校主催の模擬試験では有効かもしれませんが、入試本番では通用しない。これをしっかりと抑えておいてください」

「では、東京大学の数学でも良いのではないでしょうか」

 武藤の鞄は大きい。
 駿台予備学校『東大入試詳解25年 東大<文科>』を取り出した。
 1999年第1問を見せる。

「この問題を解けますか」

 北条陽介は、手も足も出なかった。一言も書くことができない。
 加法定理(三角関数)の公式を暗記することに躍起になっていれば、2倍角・3倍角はもとより半角や積和・和積の公式まで「暗記」に頼ろうとする受験生はいる。東京大学は、こうした暗記力にすぐれた「秀才」を、入学者から排除しようとして、この問題を出題したのではないか。

 北条陽介の解答の読み方を観察していた武藤は、肩をなで下ろした。
 数学を全く理解していないというのではない。教科書に書かれている基本的な事項や定義を読み飛ばして、演習問題に手をつけてばかりの受験生活を送っていたにすぎないのだ。受験戦略を実行するにあたって、数学を加えることに大きな支障にはならない。

 理科であれば、「長文読解問題(英語)で一通りの知識を読み解くのに必要だ」という理由でなんとか理解できるだろう。だが、数学を選択科目として選ぶわけでもないのに、数学に本腰をいれて早稲田大学・慶應義塾大学の合格を勝ち取るという「併願早稲田」の受験戦略が受け入れられるとは限らない。大学受験に限らないことだが、家庭教師業務では、生徒からの信頼が不可欠である。信頼という名にあたいするものがなくなった時、教員は仕事を失う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?