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「プリゴジンの乱」をどう位置づけるか

2023年6月24日。
 
「プリゴジンの乱」
 
がTwitterの日本語空間でも大いに話題となった。
 
 筆者は軍事の専門家ではないのだが、この事象を日本語で日本史にそくして考えると、類似性が高いのは「西園寺公宗が捕縛された(処断された)」という一件だと感じた(2023年6月25日23時)。
 
 
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 誰にも信じてもらえない「大阪府警外事課協力者(ロシア担当。2006-2018)」という看板をさげている筆者でも、こういう反応を受けることくらいはわかる。
 
「そんな事件、あったっけ?」
 
 

 世相はどのように展開するか、わからない。
 
 筆者は、アニメ『推しの子』をバンダイチャンネルで視聴している。
 大変な反響をよんでいるが、『逃げ上手の若君』のTVアニメ化が発表されている今日(2023年6月25日)において、「西園寺公宗」が物語の転換点になる可能性を排除することができない。少なくとも、NHK大河ドラマ『太平記』(1991)は、西園寺公宗の捕縛という史実を用いて、中先代の乱へと物語が展開していくストーリーとなっている。
 
 「アニメ『逃げ上手の若君』」が、アニメ『推しの子』の第1話と同じくらいのインパクトのある「第1話」を構想しているのなら、第1話は六波羅探題滅亡・鎌倉幕府滅亡を壮大に描くシナリオが考えられる。同作品公式サイトで「足利『高』氏」という表記がみられるため、鎌倉幕府滅亡に至るストーリー展開も想定される。

 そんなに予算をかけずに北条時行を登場させようとするならば、大河ドラマ『太平記』(1991)のように「西園寺公宗」を登場させてサラっと中先代の乱へとつなげるのも一つのシナリオとして想定される。
 
 ところでいまさらなので恐縮なのだが、「西園寺公宗の捕縛・処断」という史実の後の展開を本稿に書いたところで、読者には大きな疑問符がともるだろう。試しに書いてみると、こうなる。
 
(1)   北条時行挙兵(中先代の乱)
(2)   鎌倉陥落
(3)   足利尊氏が後醍醐天皇の勅許を得ずに出陣
(4)   足利尊氏、北条軍に連戦連勝
(5)   鎌倉陥落
(6)   足利尊氏、論功行賞を行う
(7)   後醍醐天皇により、足利尊氏追討のため新田義貞が出陣
(8)   新田義貞軍、足利軍に連勝
  
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 (n)足利尊氏、九州で再起
 
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 (n+x)湊川の戦い
 
 誰もツッコミをいれてくれないと思うので自分で補足する。足利尊氏が九州に落ち延びたのは、奥州から北畠親房・顕家が出撃して足利尊氏を敗走させたから。アニメ『逃げ上手の若君』で北畠顕家がキャラのたった武将として描かれると思われるが、そうするとその前後も書かなくてはならないので本稿の時系列では割愛した。
 
 つまり、「西園寺公宗の捕縛・処断」のあとの展開を、おそらく当時の誰一人として予想しえなかっただろう、ということだ。それほどに、「プリゴジンの乱」は、現時点(2023年6月25日23時(日本時間))においては、先が読めない。
 
 筆者が大阪府警外事課協力者(ロシア担当。2006-2018)として「現役」だったら、ゼッタイに聞かれただろう。
 
「今後の展開は?」
 
 わからない。
 
 ゲーム理論を少しくかじったことのある方であれば、「展開型ゲーム」や「ゲームの木」という言葉を聞いたことがあると思う。
 「ゲーム理論」という名前は知っていても、大学でふれる機会がなかったという方であれば、高校数学の「確率」で説明することができる。サイコロをふる問題を覚えておられるだろうか。
 
 しかし、ゲーム理論においても、高校数学・確率であっても、その分岐点が起きるのは、時を選ばない。いつでも不時にやってくる。
 
 直近でいえば、G7広島の「裏番組」でプーチン氏主導による旧ソ連諸国首脳が集まる機会がもうけられた。その際にルカシェンコ氏(ベラルーシ)急病説が流れた。ルカシェンコ氏に、もしものことがあれば情勢は流動的になる・・・・・・という中で、ルカシェンコ・ナベウーリナ(ロシア中央銀行総裁)会談の動画が配信されて、ひとまず「静観」ということになっていた・・・・・・事態の中で、「プリゴジンの乱」の妥協点を図ったのはルカシェンコ氏(ベラルーシ)だったのではないかという報道や発言が(一部に疑問符を呈されながらも)されている。

 プーチン氏がベラルーシ・カザフスタン・ウズベキスタン・トルコの首脳に電話をしたという情報も日本語空間で(限定的な範囲ながら)伝わっているかもしれない(ちなみに筆者はこの情報に初めて接したのはロシア語だった)。
 
 ただ、間違いなくいえることは、「ルカシェンコ急病説」が「一般常識」として世界中の了解事項として展開していたならば(反実仮想)、「プリゴジンの乱」にベラルーシは関与することができなかった(関与したとしても、世界はそれを受容することができなかった)だろう。
 
 後世の歴史家は、個々の「事実」を取捨選択し、「歴史」を構成し、時代の中での解釈を行う。それがその後世の歴史家たちによってたえざる検証をうける。そして、「事実」の積み重ねの価値判断(無価値判断)を行い、どこに分岐点だったのかということを解釈し、その仮説の正しさを「証明」していくだろう。
 現在の首脳・実務家は、「現世」において、サイコロ(比喩。「試行」の意味)の目によって発生する分岐点がどこにあるのだろうかと、時として即断で臨み、歴史の法廷に立つ。
 
 市井の個人事業主の筆者には、将来の見通しはわからない。
 しかし、「プリゴジンの乱」のインパクトが同時代的には大きかったことは、おそらく「事実」だろう。逆に言えば、すぐに終わった(?)ので後世の歴史家にとっては(当該分野が専門である場合を除いて)とりあげるにあたいする「事実」にはならないかもしれない。

 では、同時代人として、筆者はどう位置づけて、情勢を観測していくべきか。 

 日本の歴史にたとえるならば、「西園寺公宗の捕縛・処断」がそれに相当する。この仮説を本稿にて提示した次第である。
  
2023年6月26日20時0分 第1稿公開


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